前山 光則
8月13日、文芸評論家・松原新一氏が亡くなられた。この連載コラム第150回「お見舞いをしてきた」に出て来るE氏は実は松原氏のことで、5月から膵臓癌との闘病生活が続いていた。お別れが近いと覚悟してはいたが、実際に訃報に接するとさみしくてならない。享年73歳、もっと生きてほしかった。
松原氏とのおつきあいはかれこれ30年を越えるし、なにかとお世話になったが、とりわけ14年前からは八代市日奈久温泉の町起こしイベント「九月は日奈久で山頭火」に力を貸してもらった。このイベントは毎年九月いっぱいかけて種々の催しが行われ、そのメインとなるのがシンポジウムである。第1回の企画をたてるとき、わたしは迷わず松原新一氏に講演を頼んだ。氏は『さすらいびとの思想《人としてどう生きるか?》』(昭和48年刊)の中で種田山頭火について詳しく論じているし、自身も一時期放浪をした経験を持つ。氏は快く応じてくださり、「山頭火・その『旅』の意味」と題して約1時間半、熱っぽく喋ってくださった。しかも、以後も欠かさずシンポジウムに出席し、企画立案の相談に乗ってくれたり学生さんたちを連れてきたりして、なにかと協力を続けてくださった。
思えば、塩野実(しおの・みのる)さんとのおつきあい、これが始まりだった。昭和55年の秋頃ではなかったかと記憶するが、文芸同人誌「暗河(くらごう)」に福岡県久留米市の塩野さんが加入した。端正な顔立ちで、物腰が柔らかくて品が良い。翌年四月発行の「暗河」29号に「文学理論の科学と非科学」を発表した。それは桑原武夫への批判が中心となっている論文であった。とてもシャープな切り口で感服するしかなかったが、全体的に『沈黙の思想』『大江健三郎の世界』『転向の論理』等の著書で知られる気鋭の文芸評論家・松原新一的な匂いがあった。だから塩野さんの論文の凄さは認めつつも暗河の会の若い連中は「塩野さんは、勉強のし過ぎだよね。だって、松原新一の影響が強すぎるんだもん」などと評していたものであった。
ところが、それからどのくらい経ってだったか、ある新聞社から電話がかかってきて「塩野実さんって、松原新一だと思わないですか?」と聞かれたのでビックリしたのだった。「エッ、ああ、しかし……」と答えにならぬ答え方しかできなかったが、それから新聞で正式な発表があるまでにはさほど時間はかからなかった。つまりは、あの頃が松原新一氏の放浪の最後の時期にあたっていたことになる。むろん広い意味での氏の「放浪」はその後も続いていたのかも知れないが……。
松原さん、もう一度一緒にコーヒーを飲みたかったですね。逝ってしまわれて残念ですが、自分の中で「塩野実」も「松原新一」も共に忘れられない存在です。長い間有り難うございました。安らかにお眠りください。