前山 光則
10日間ほどあちこちを旅行してきた。
8月26日、曇り。昼前に羽田空港に着いたが、まず世田谷区桜二丁目7の3、桜公園を目指した。そこは、詩人で女性史研究家であった高群逸枝が夫の橋本憲三のサポートの下に37歳の夏から研究生活を送った場所で、いわゆる「森の家」の跡なのである。
小田急の経堂駅で下りて、交番で道順を訊ねてみた。だが、女性の若いお巡りさんが地図を広げて「二つめの信号のここを左に曲がった後、その先の突き当たりは右へ……」などと説明してくれるが、頭が混乱するばかりだ。「タクシーの運転手さんに連れて行ってもらった方が確実ですよ」ということになった。それがよかろう。タクシーに乗り込んだ。
なにしろ道が細くてグニャグニャしており、一方通行が多い。グルリグルリと遠回りし、運転手さんは「こうするしかないもんで」と申し訳なさそうに何度も言うのだった。それでも14、5分でそれらしき公園を見つけることができた。高群逸枝は自伝『火の国の女の日記』の中で、「そこは細長い樹木地帯の南端に位置し、南はまるで人通りのない並木道をへだてて畑地、北は森、この森の先は植物園をはさんで稲荷の森につづく。東も森、西は軽部家の一町にあまる広い畑。その遠近にも森や雑木林が点在し、その間から富士がちょっぴり顔をのぞかせている」と書いている。このあたりはまったくの田園地帯だったわけで、それが住宅で埋まってしまい、グニャグニャした道はかつての田畑の畦道が広がらぬまま車道と化したのだろう。だから一方通行も多いので、おかげで昔の農村の名残りを体感することができた。逸枝・憲三夫妻は純農村にあって研究生活を送ったのだなあ、と、それが分かるだけでも来てみてよかった。
200坪の敷地にあった住まいは洋館の2階建てで、上下各3室。建坪は約30坪だった。土地を提供してくれた軽部氏の好意で、虎ノ門の「N宮家」が解体された時の資材が使われたという。憲三氏が自分で設計したのだそうだが、写真で見るとしゃれた、落ち着きのあるたたずまいだ。建物のまわりは櫟(くぬぎ)や栗の他、杉・松・檜などの常緑樹も茂っていたというから、研究に打ち込むには最適の環境だったろう。高群逸枝は昭和39年に70歳で死去した。憲三氏はその2年後に妹さんの住む熊本県水俣市に移り住んだ。「森の家」は世田谷区立の児童公園として生まれ変わり、昭和44年6月7日には公園内で「高群逸枝住居跡の碑」の除幕式が行われた。碑には「時のかそけさ/春ゆくときの/そのときの」「時のひそけさ/花ちるときの/そのときの」と自筆の詩章が刻まれている。
ここに一度来てみたかったのだ。しかし、それにしても「N宮家」の資材を転用したというしゃれた建物はどうにか残せなかったのかなあ。流れる汗を拭きながら、そう思った。