第217回 「生類供養と日本人」を読んだ

前山 光則

 このところ同じ天気が3日以上続くことがなく、晴れたり降ったり曇ったりの繰りかえしで落ち着かない。黄沙のせいでどんよりしている日もある。こうした日々を過ごすうちに、やがてあちこちで桜も咲くのだろう。
 長野浩典著『生類供養と日本人』(弦書房)という本を読んで、とても面白かった。各地に存在する生類供養の墓や塔について研究した本だが、いわゆる「研究書」という感じではない。文章が分かりやすくて、なんだか著者と一緒に供養墓や塔を実際に訪ね歩いている気分であった。本書冒頭に登場する大分市浜町の恵比須神社からして、そそられる。神社境内には萬寿瑞亀之墓(まんじゅずいきのはか)と称するウミガメの墓の他、魚形の手水鉢があったり、拝殿には鯛の絵馬が掛けられているのだという。実際に見てみたくなった。JR羽犬塚駅前の「羽犬」が紹介されているのを見ると、これは以前不思議な気持ちで眺めたことがあるので、あらためて親しみが湧いた。あるいは、東京の靖国神社、あそこは戦争へ行った人間だけが祀られているのかと思いこんでいたが、軍馬・軍犬・軍鳩までもが慰霊の対象とされているそうである。へえ、へえと感心しながら読破したのだった。
 なぜまた日本人はこうまで手厚く生類供養を行なうのだろうか。著者は、渡辺京二氏の『逝きし世の面影』の中で幕末の頃の日本人は「人間を他の動物と峻別して、特別に崇高視したり尊重したりすることを知らなかった」、つまり「日本人は未だ、西欧流の“ヒューマニズム”を知らなかった」と論じられていることに共感を示す。その頃の日本人は、自分たち人間を他の動物よりもありがたいものとか偉いものとは考えていなかったのである。そこで、著者は、こう述べている。
「日本人の動物観の根底には、輪廻転生という仏教的概念が大きく横たわっていることは間違いない。それは、ヒトだけが霊魂(精神)を持ち、神は、ヒトの食用その他の用に供するために、他の動物をつくったとみるキリスト教的人間観・動物観と大きく異なるものであった。であればこそ、幕末明治に日本を訪れた外国人たちは、日本人の動物との接し方に驚きのまなざしを向けたのであった」
 言われてみれば、西欧流の人間観・動物観とわれわれ日本人のそれとはこんなにも大きな隔たりがあるわけだ。明治維新以降140余年、日本人もかなり西欧の人間中心主義に染まってきているかと思えるが、それでもまだまだ外国人が驚くような動物との接し方を手放していない。この『生類供養と日本人』を読むことは、つまりはわれわれ日本人が何者であるかを考え直す作業でもあるのだ。
 ついでながら、草木供養塔は全国に120基あるが、そのうち山形県内に110基集中しており、西日本地方には基本的に見られないそうである。意外だなあ、と思った。
 
 
 
写真 土手の菜の花

▲土手の菜の花。球磨川の土手に菜の花が咲いていた。曇り日で風も冷たかったが、花は元気良さそうだった