第216回 昭和46年に出会った人

前山 光則

 奄美・島尾敏雄研究会が編んだ『追想・島尾敏雄――奄美・沖縄・鹿児島』という本がある。43名の人たちが故・島尾敏雄氏について思い出話を書いているのだが、ぱらぱらとページをめくっているうちにその中の崩中幸一「島尾敏雄の瞳」に来て目が止まった。
「航海記の副長格、A特務少尉に擬せられているのが脇野素粒(本名・勇雄)であると聞いた記憶があるが、話してくれた人が南海日日新聞記者か、名瀬の郷土史研究家であったか定かでない。聞いた日時は、素粒の死亡した昭和四十九年六月二十八日の翌々日の夜、場所は名瀬の繁華街の飲食店だった」
 思わず息を呑んだ。ここで「航海記」とあるのは、島尾敏雄氏の戦記小説「徳之島航海記」である。確かにあの小説には隊長の「私」を補佐する立場で「A特務少尉」が登場する。兵隊での階級は高いがまだ不慣れである「私」に比べて、部下のAはずっと経験豊富、だから両者の関係は微妙だ。この「私」には、大学を繰り上げ卒業して奄美加計呂麻島・呑之浦の第十八震洋隊の隊長となった島尾氏自身が投影されている。そしてA特務少尉というのはもしかしてあの脇野素粒(わきの・そりゅう)さんがモデルなのかな、と長年勘繰ってはきた。しかし、それがズバリ本当であったとは……。しかも脇野氏は昭和49年に亡くなったとあり、それならば、わたしはその3年前にこの人に出会ったことになるのだ。
 昭和46年の真夏、島尾敏雄氏が図書館長を務める奄美大島に渡った。一週間近く滞在したが、ある日、名瀬市内から峠を越えて行ったら小さな湾が展開し、海水浴場で人が泳いでいた。朝仁浜というところである。浜の茶店に立ち寄ってジュースか何か飲んだ。店の中を見まわすと、店主は小肥りの初老の男性で、眼光に力があった。背後には本棚が立っていて、島尾敏雄・埴谷雄高・吉本隆明等の著書がぎっしり詰まっている。詩歌の本も多かった。その店主が脇野素粒氏であった。わしは島尾の特攻隊に所属していたし、今もつきあいがある、自分はたたき上げの兵士だったが、彼は学士さんで軍人ではなかったな、しかし作家として島尾は凄い、それは認めねばならん、などと脇野氏の話しぶりには微妙な屈折が否定できなかった。氏が郷土史家で俳人でもあり、『流魂記・奄美大島の西郷南州』『エラブの礁・句と文』等の著書があるということは、ずいぶん後になって知った。
崩中幸一氏の文には、他にも脇野氏が本来は鹿児島田上町の人だが、戦後、仕事の挫折や生活上の転変が続いた果てに奄美の朝仁浜に居着いたのだとも書かれている。脇野氏は明治45年の生まれだから、昭和49年に亡くなったのならば享年62歳だったことになる。氏は島尾氏よりも6歳上だった。そういえば、島尾氏は昭和61年11月に69歳で死去した。来年で没後30年になるのだなあ。
 
 
 
写真 紅梅

▲紅梅。八代城址の近く、紅梅がほとんど満開状態だった。今、白梅も紅梅もあちこちで見かける