前山 光則
最近、遠くに住むK氏から電話で「あなたの暮らす砂州には、他にも家が結構あるわけね」と言われて途惑った。「前回のコラムを読んでさ、近所の人たちが雪だるま造ったりしてるから、無人島みたいなとこじゃなかったんだなと気づいたよ」、こんな調子だ。「何ば言いなさるですか。ここ麦島は長さ5キロ余あって、約7千500人の住民が暮らしておるとですから!」と説明してやった。
昨日、散歩の途中で麦島城址に立ち寄ってみた。わが家から1キロもない距離で、城址といってもたいしたものがあるわけではなく、空き地に説明板が設置されているだけだ。まわりは墓地や民家に囲まれている。ただ、そこからは周囲の家々や道路がいくぶんか下方に見えるから、球磨川三角州の中で最も高いところなのだと納得できる。それでも海抜はせいぜい5メートル程度だろうか。麦島城は、天正16年(1588)、宇土・八代の領主となった小西行長が重臣の小西行重に造らせた城だ。城の広さは400メートル×350メートルで、本丸・二ノ丸・三ノ丸があった。50メートル幅の堀が城を囲み、海から交易用の船が入れるようになっていたそうで、行長はここを水運の拠点としたらしい。
城址に石垣も建物もないのは、元和5年(1619)の大地震で崩壊したためである。説明板には、平成8年から15年にかけて行われた発掘調査の際に「二ノ丸跡では平櫓と見られる建物が倒壊した状態で見つかりました」とあり、これはわたしも覚えている。発掘調査は本丸近くの大通りを開削する時に工事を中断させてなされたのだが、えらく話題になったから行ってみたら、平櫓(ひらやぐら)が斜めに傾(かし)いだままの状態で見ることができて、地中での保存状態の良さにビックリしたものであった。で、昨日はその説明板を読んでいたら、近くに住むご婦人が出てきた。「ここを訪れる人はありますか」と訊ねると、「はい、たまにな、もの好きが来なさるたい」とのこと。ははあ、それならばわたしも「もの好き」に入るわけである。
それから、わが家のすぐ近くの児童公園はキリシタン殉教の場で、それを説明する標柱が立っている。慶長8年(1603)・9年、ここで何人も教徒たちが斬罪・磔(はりつけ)に処されたのだという。今でこそあたりはまったくの住宅地であるが、かつて海岸線は公園のあるところギリギリまで迫っていたようだ。このあたりは海浜だったのかと思うと干拓の歴史の長さにため息が出るし、海に面した渚で血なまぐさいことが行われたのだな、と考えるとザワザワと胸騒ぎがしてくる。
人家が多いし、大きな道路もあり、歴史も古い。三角州を無人島同然に思いこんでいたK氏に見せてやりたいもんだ。もっとも、「他にも家が結構あるわけね」などとは、わたしをからかっていたのだろうけれど……。