第286回 「非定住」への眼差し

前山 光則

 最近読んだ本でとても興味深かったのは、長野浩典著『放浪・廻遊民と日本の近代』(弦書房)である。箕(み)作りを主な生業として「ミツクリ」とか「ミツクリカンジン」などと呼ばれていた「サンカ」や、海の廻遊漁民である「家船(えぶね)」、ハンセン病を患ったために家や共同体から離れる他なかった「放浪するらい者」、物乞いをしながら放浪する「乞食」、こういった人たちのことが、綿密な調査や文献資料にもとづいて詳しく物語られており、とても面白い。
 その一つ、『大地に生きる』を著した清水精一が大正年間に大阪市阿倍野で乞食らと生活を共にした時、ある老婆に向かって「日本には天皇陛下が御坐し給うが知っているか」と尋ねた。老婆は「そんなもの知らないよ」と答えて、「それはチャンのようなものか」といったふうな理解であった。チャンとは、彼らにとって仲間の「頭(かしら)」を意味するのである――と、これはわたしなども『大地を生きる』で読んだ覚えがある。
 しかし、大分県の家船の人たちが住み着いたとされる集落のことは、今まで知らなかった。そこでは、例えば結婚式には「本祝言」と「野合式」とがある。前者は一般の挙式と同様のことだが、後者は自然の成り行きで子どもができちゃった場合、または結婚資金をあまり持たない場合、式を「夜にひそかに挙げる」のだという。本祝言は「走り祝言」とも呼ばれ、周りの者たちが新郎・新婦やその家に汚水や汚物やらをぶちまけて祝福するのだそうだ。実に乱暴だが、まことにユニーク。また、集落内は男尊女卑ならぬ「女尊男卑」、すなわちかかあ天下だという。それから、子が生まれても出生届けをあまりしたがらない、といった事例を紹介した上で、著者は「彼らは戸籍制度に意味を見いだしていないことはまちがいない。いや、戸籍がある故に教育、納税、兵役の義務が発生する。そのすべてを津留の人びとは忌避していた」と書いている。
「教育にしても納税にしても兵役にしても、半ば廻遊生活をしながら魚を獲って暮らしていた津留の人びとにとっては、それほど重要とは思われなかった。それどころか、学校も納税も兵役も生活するうえで邪魔にこそなれ、何の足しにもならなかった。家船の漁師にとって、魚を獲る技術、風や潮を読む技術を習得するのに最適な学齢期に、学校に行っている場合ではなかったのである」
 ――こうした集落があったことなどは、正直なところ驚きである。
 つまり、放浪・廻遊する人たちの中には国家との間に距離を置いて、国家に取り込まれぬようにしようとし、「非定住」をむしろ拠(よ)りどころとして生きる者があったのだ。「定住」を自明のこととして推移してきた日本近代への、いや全世界的風潮への、これは根底からの問いかけというべきであろう。
 
 
 
写真 紅梅

▲紅梅。晴れた空の下、紅梅が満開。暦の上ではもう春だ