第十六回 電信柱が語る

浦辺登
 
『南洲遺訓に殉じた人びと』16
 
 平成二十八(二〇一六)年六月、一本の電柱に看板が付いた。場所は現在の福岡県筑紫野市二日市中央四丁目になる。その電柱看板には「二日市の夢野久作」として、夢野久作が書いた『父・杉山茂丸を語る』の一節が記されている。この一本の電柱だが、これによって夢野久作という作家が幼少の頃、ここに住んでいたとうことが分かる。明治二十七(一八九四)年のことだから、百二十年以上も前のことになる。いまだ、夢野久作の怪奇小説『ドグラ・マグラ』は世界中の人気を誇っている。作家の旧居跡などは、ヨーロッパではレンガの壁に銅板で埋め込まれていたりする。しかし、福岡市や周辺都市ではさほどの関心を持たれないのが残念に思う。
 それはさておき、この電柱看板には「橋元屋という旅館の裏手に住んでいた頃」との記述がある。現在、この橋元屋という旅館跡は駐車場となっている。橋元屋という旅館があったことを記憶しているが、あの旅館の裏手に夢野久作は住んでいたのかと、感慨にふける。江戸時代、年貢米を積んだ舟が出ていた場所の側に橋元屋はあった。
 さらに、この橋元屋という旅館は幕末史に記録されても良いのではと思うことがある。それは慶応二(一八六六)年三月、幕府の目付小林甚六郎たち三十余人が宿泊した旅館が橋元屋だったのでは、ということからである。この小林たちは、太宰府天満宮の延寿王院に滞在する三條実美たち五人の公卿を江戸に送還しようと試みて二日市を訪ねた。
 しかし、薩摩藩の大山格之助(後の綱良)が藩士三十五人に大砲三門をもって、目付の小林たちを威嚇した。それも「長い刀は伊達にはささぬ。あずま男の首を斬る」と大きな声を張り上げ、大砲の台車の音を響かせたという。これに驚いた小林たちは早々に引き揚げた。討幕維新への大きな変化を告げる、号砲にも似た騒ぎだったのではないだろうか。
 記憶力に優れた夢野久作だったが、果たして祖父の三郎平からこうした逸話を聞いていたか否かはわからない。ただ、この電柱があることで、歴史語りができるのはありがたい。
 
 
 
「橋元屋」跡の側にある電柱(夢野久作)

▲「橋元屋」跡の側にある電柱(夢野久作)