前山 光則
謹賀新年。今年も、どうぞよろしく御愛読お願い申し上げます。
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昨年の12月23日、友人K氏と共に昔の山鹿温泉鉄道沿線を辿ってみた。
わたしのエッセイ集『ていねいに生きて行くんだ――本のある生活』(弦書房)に収めた「山本橋駅跡へ行く」で書いているように、かつて国鉄(現在のJR)植木駅前と山鹿市中心部との間の20.3キロには1965年(昭和40)まで「山鹿温泉鉄道」という私鉄が走っていた。1925年(大正14)3月から翌年の4月にかけて鹿本郡植木町味取(現在の熊本市北区植木町味取)の瑞泉寺・味取観音堂で堂守生活をした種田山頭火は、友人の木村緑平に宛てて、自分のところに遊びに来る際にはこの鉄道の山本橋駅で降りてくれ、と葉書で書いてやっている。植木駅から数えて4番目にその山本橋駅はあった。山頭火にとって、山鹿温泉鉄道は身近な存在だったようなのだ。ただ、このたびは山頭火のことで出かけたのではなかった。山本橋駅跡よりも10キロほど先、終点の山鹿駅から数えると3つ手前に来民(くたみ)駅というのがあったそうで、そこへ行ってみたかった。
八代から出発して高速道路を走り、植木インターで国道3号線に下りた。すぐ近くに山頭火のいた瑞泉寺があり、国道から右に折れてその寺の横を通り、1キロほど下の方へ下って行くと山本橋駅跡がある。K氏に、かつて駅舎があった場所や貨物引き込み線が敷かれていた場所等を教えてあげた。山鹿市へとつづく鉄路跡は、サイクリングロードとして活用されている。こうしたことは、4年前に来た時、地元の老人が教えてくれたのである。
「ここを、ディーゼルカーが走っておったそうだもんね」
わたしが言うと、
「貨物の取り扱いもやっていたなら、駅はかなり活気があったろうなあ」
とK氏がうなずく。とにかく、かつての山鹿温泉鉄道のことを偲ぶには、ここらあたりが最も良く当時の面影を留めているらしいから、寄ってみたわけだった。
そして、いよいよその先、山鹿市鹿本町来民方面へと向かった。植木から北方の来民へかけてはゆるやかな下り坂がつづく。すると、霧がやたらと濃くなった。前方に何が現れるか分からぬほどの真っ白状態であり、車のスピードを極力落とすしかなかった。天気予報は「快晴」である。なのに、この濃霧。霧が晴れてくれば予報通り抜けるような青空が現れてくれるのだろうが、今はまだ望めない。こういう濃霧現象は、山に囲まれた盆地であれば納得できる。
「しかし、ここら、平野だろう?」
とわたしが首を傾げると、
「うん、いや、だが、ほら、今、菊地川を渡った。この川から霧が湧くんだろうよ」
K氏は言う。
ともあれ、なにしろ霧が深い。K氏が自分のスマートフォンのナビを使って探ってみるが、なかなか覚束ない。だから、何度も土地の人を呼び止めて道を訊ねてみるしかなかった。いや、だが、こうしたことが実地に経験できるだけでも来た甲斐があった。進む内に少しずつ街の様子が見えてきて、白壁土蔵がある、古ぼけた民家が目立つ。いかにも老舗といったふうの商家が見える。来民名物の団扇を製造・販売する店がある。霧深い中に、懐かしくなるような風情が漂っていた。
そして、来民駅のあった場所にたどり着くことができた。無論、廃線となってすでに50年以上経つのだから、当時の面影はない。通りがかりの老婦人に聞いてみたら、目の前に見える住宅地一帯に駅舎が存在したのだという。わたしたちはかつての駅前通りに立っていることになる。その住宅地の向こう側にはサイクリングロードが通っており、これは昔の鉄路跡である。
めざといK氏が道路脇の古ぼけた家を覗き込んでいたが、
「ここは、昔、食堂だったとでしょう?」
と老婦人に訊ねた。すると、その人は苦笑して、そうだ、と答えた。食堂だったし、菓子なども売っていたという。
「メニューは、うどん、チャンポン、稲荷寿司、とかじゃなかったですか。ちょっとした雑貨や菓子も、売ってあったりして」
K氏が言ったら、老婦人は大笑いして、
「はい、その通り」
と答えてくれた。そうか、よくよく見れば、軒先に遺る看板には「食堂・菓子」とある。ここは典型的な駅前食堂、汽車の乗り降りする人たちが時間待ちの間に簡単に食事したり、休憩する場所であったのだろう。そして雑貨店でもあったわけだろう。なんだか、それだけで当時の街の様子が彷彿としてきた。
その頃には、霧もだいぶん薄くなってきた。
「このあたりでは、志賀(しが)とか男沢(おざわ)とかいう苗字は聞きませんか」
と聞いてみたが、老婦人は、
「さあ……、そぎゃんですねえ、聞いたことがあるような、ないような」
途惑った顔つきであった。老婦人は近くに住んでいるが、生まれ育った地ではない。成人して嫁に来たので、それ以前のことは知らないらしい。
実は、来民へ来てみたのは、若くして世を去った志賀狂太(しが・きょうた)という歌人がここらで育っているらしいからである。
志賀狂太は、古江研也氏の「資料 歌人志賀狂太のこと」(「方位」第14号)によれば、本名は義弥(よしや)。1927年(昭和2)9月15日、ここ来民で男沢(おざわ)官平・シゲの三男として生まれている。父親は他ならぬ来民駅の構内で運送業をやっていたそうだ。1933年(昭和8)になって、志賀泰雄の養子となる。だから、大人になって歌を詠む際にはおおむね「志賀狂太」という名で発表するが、「男沢狂太」と名乗ったこともある。朝鮮半島に渡り、敗戦を迎えるとソ連の捕虜となり、朝鮮・満州を転々とさせられる。1946年(昭和21)に引き揚げて来て、来民で働くかたわら慶応大学の通信教育を受ける。1951年(昭和26)には結婚もするが、程なく離婚。結婚・離婚を経験した頃にはすでに短歌を詠んでいたようで、翌年春からは毎日新聞熊本版に短歌欄ができたので投稿するようになる。
露転び土俵にしみとなるみつつ道となる田の青麦を刈る
朝霧の野道曲りて女教師の眼鏡さかしき一蔑に会ふ
新しきものを忌むこと昔のごと変わらぬ村に慣れゆかむとす
煎薬のにほひの空にこもりゐつつ窮民くさくなりて父臥す
さう無闇に注射をうつと父よいふな米買ふ銭にも困じてゐるのに
こうした歌を投稿したそうだが、すでにしっかりした詠法を身につけており、しかも繊細・鋭敏な感覚が知れるような作品である。
投稿する者たちの中に、この来民在の志賀狂太に注目した女性がいた。それが、志賀と同年生まれで水俣に住む石牟礼道子さんだった。志賀の歌が載ると必ず読んだのだろう。たまにその名が見られぬ時もあって、石牟礼さんは寂しがっている。昨年刊行されたばかりの『石牟礼道子全歌集 海と空のあいだに』(弦書房)を見ると、1952年(昭和27)11月11日発表の作に、
男沢狂太の歌載りをらねば一抹のさびしさ持ちて新聞をたたむ
というのがある。これは石牟礼さんが毎日新聞熊本版・短歌欄へ初めて投稿した作品である。石牟礼さんは、志賀の作品に刺激されて自身でも新聞への投稿を意図したのだったか知れない。後年になってから、自叙伝『葭の渚』(藤原書店)でこう回想している。
志賀狂太と名のる歌人に、わたしは心ひ惹かれていた。虚無感をたたえながら、至純さ が匂い立つような彫りの深い歌をつくる人だった。しかし全体としては、春の野の泉の ような若さにあふれている。
もしかすると、水俣在の石牟礼さんにとって、志賀狂太の歌は「刺激」以上の影響を与えてくれたかとも思われる。
短歌欄の選者であった熊本在の蒲池正紀が歌誌「南風」を創刊すると、志賀も石牟礼さんもそれに加わった。お互い、歌を作ることに関してたいへん熱心だったのである。
志賀狂太は、1952年(昭和27)の10月には県南の球磨郡上村(現在の球磨郡あさぎり町上北)神殿原(こうどんばる)に移住する。神殿原一帯は人吉盆地の真ん中に位置しており、来民以上に霧の発生が多いところである。そんな球磨の地で地元の歌人たちと交流し、牛乳店や印刷所で働きながら来民に戻ったり、神殿原に帰って来たりを繰り返すし、自殺未遂を2度3度とやらかしている。 志賀と石牟礼さんは文通をつづけ、実際に会ってもいる。志賀の1953年(昭和28)6月1日の作に、
逢はむとふそのひとことに満ちながら来たれば海の円ろく静まり
これはそのことを詠った作である。また、同日の詠に「言はねばならぬ焦(いら)ちにありて初めての逢ひにさりなきもの言ひぞする」「遂げられぬ恋情なれば初めなる逢ひを得しよりいや激ち来も」等があるので、もしかしたら志賀は石牟礼さんに対して好意以上のものを抱いていたかも知れない。石牟礼さんは石牟礼さんで、同じ年の9月には神殿原に志賀を訪ねている。
こういうふうに2人の間には文学的交流があったのだが、志賀はどうもこの世に生き続けるには無理な、繊細すぎる性情の人であったようだ。1954年(昭和29)4月、人吉市東間下町の市営米山(よねやま)団地裏手の山林内で服毒自殺を果たしてしまっている。享年、26であった。なんとしても早すぎる死であった。石牟礼さんに、
醒めかけしまなぶたの上打たれゐて切なし春の笞(しもと)は匂ふ
というのがあって、これは志賀の自死を悼んだ歌である。また、その死の10年余経てからは、
まぼろしの花邑みえてあゆむなり草しづまれる来民廃駅
と詠んでいるから、志賀狂太を偲んで実際に来民駅跡を訪れてみたのであったろう。
短歌は石牟礼道子さんの出発点であった。歌を詠むことで若い頃の自身の懊悩を癒したし、懸命に表現力を磨いた。そして、歌人たちとの交流の中で志賀狂太に最も共感を覚え、交流も重ねた。ではその志賀狂太ってどんなところで育ったのであったろう、と、ずっと以前から気に掛かっていたが、今頃になってようやく現地に来てみたわけであった。
わたしなどは、同じ熊本県内であってもずっと南の人吉市で生まれ育っている。だから県北については土地勘がなく、まして来民などにはまるで縁がなかった。こうやって初めて現地を訪れてみると、濃霧現象に出会わしたのでさえ良い経験であった。まったく、来民は菊地川の流域にあって、平野でありながら盆地であるかのような気象現象の起こるところなのである。そして古くは結構栄えた街であり、今もなお往時の雰囲気を湛えている。
「そういえば、ここは来民団扇が知られているよなあ」
K氏が言う。ああ、そうだ。真竹を割って、和紙を貼り、柿渋を塗った、趣きのある団扇。来民団扇は昔から丈夫で品があるというので知られている。江戸時代の初期から作られてきたのだという。
「来民はここら辺では物資の集散地だったというから、昔は賑やかだったんだろうなあ」
K氏は溜め息をついた。
来民駅跡近くで会った老婦人とは愉しい会話ができたが、志賀狂太の生まれ育った場所がどこら辺なのか、詳しいことは手がかりすら得られなかった。父親が来民駅構内で運送業をしていたというのであれば、そこを訪れてみるなら何か分かりそうなものだ、と高をくくっていたが、ダメだった。でも、ま、良い。来民がどういうところであるか、その片鱗には触れることができた、と思った。
霧はもうすでになかった。今、空は抜けるような青空だ。
ついでのことだから、近くの道の駅プラザかもとの敷地内ではかつての鉄橋を観ることができるというので、立ち寄ってみた。山鹿温泉鉄道は菊地川を跨いでいたので、鉄橋が架かっていた。それを一部分ながら道の駅の方へ移設したのだそうで、敷地内の水路を跨ぐかたちで設置してあった。普通の鉄道の橋よりもやや小形、かわいらしい感じであった。