第371回 『娘巡礼記』の中の一節 

前山光則

 最近、高群逸枝の『娘巡礼記』を読んで、たいへん面白かった。いや、訂正。この本の中に何気ないかたちで出てきた一語について感ずるところがあった、と言うべきだろうか。
 『娘巡礼記』は岩波文庫に入っている本であるが、今まで気にかかっていながらなぜか読まぬままだった。新型コロナのおかげで外出が減ったので、この際と思って読み出した。そしたら、止まらなくなった。この人のものは、本格的な女性史研究はともかくとして『火の国の女の日記』『今昔の歌』といった自叙伝やエッセイを若い頃に読んでみた。それなりに面白かったのであるが、しかし、今度の『娘巡礼記』は格段に魅力があるゾ、と思った。これは、大正7年(1918)6月6日から同年12月16日まで「九州日日新聞」(現在の熊本日日新聞)に105回連載されたのだという。高群逸枝は当時24歳、そんな若い女性が四国巡礼をしたのであるが、途中で同行者となった老人や旅先での色んな人たちとの心の触れ合い、土地土地の風物などが次々に語り出されて飽きない。若くて才気も情熱も溢れる高群逸枝の感受性がほとばしる筆致であり、折り折りの思索や情熱や悩みやらが溢れている。
 さて、それで、である。ひょんな発見があったのだ。現代の熊本県人がまるで忘れてしまっている言葉が、いや、人名がひょっこり出てくる。それは、高群逸枝の若い頃にはまだ熊本の人たちの間で結構普通に知られていたのであったろう。こう記された一節――。

     「二度吃驚(びっくり)」とは貴女の事だ――今日も或(ある)官吏の人がこういっ た。第一若すぎる、と皆はよくいう。これについて私には毒水を吞むような苦しさが伴っている。それは「貴女は十八?」と聞かれて「ええ」といってきた事なのだ。仕方がない、行先々十八で通さねば不都合を来(きた)す事になってしまった。ああいやだ。 この上は彼(か)の往昔(むかし)の尾藤(びとう)金左(きんざ)氏の気狂いのように自今(じこん)郷里に帰ってからもやっぱり十八で通して行こう。

 熊本を発した後、まだ四国へ渡る前の7月1日の記述である。逸枝は、旅立ち後間もなくして知り合った信仰心篤い伊藤宮次という老人とこれから先一緒に歩くこととなり、その伊藤家に滞在している。なにせ伊藤翁は、「お前は観音様と、因縁が非常に深い」と高群逸枝に確信もって呟くような人なのである。そこは、大分県大野郡東大野村中井田字牧上(現在、東大野市)というところである。伊藤翁が長旅の準備を整える間、幾日も泊めてもらうのだが、その間うら若い身で四国巡礼なぞしようとしていることが周囲に知れ渡り、大変な話題となって、人が訪ねてくる、手紙まで来る、年齢までとやかく聞かれてしまう。それで「貴女は十八?」と訊ねられたりして、はっきりとは答えないうちに実は24歳であるのだが18歳と見なされてしまう始末。そう見なされたからには、「行先々十八で通さねば不都合を来(きた)す事になってしまった」というわけだ。高群逸枝は、そうした自身のことを「彼(か)の往昔(むかし)の尾藤(びとう)金左(きんざ)氏」のように「気狂い」を装い、郷里に帰ってからもそのまま18歳で通そうか、などと自棄(やけ)気味に思いを記している。これは、つまり、自分もワマカシ精神に徹しようか、とうそぶいていることになる。
 この箇所に触れて、へーッ、「尾藤金左」というのはそのようにも当時熊本の人たちにはよく知られていたキャラクターだったのか、と、いたく感じ入った。現在の熊本では、この名はすっかり忘れられてしまっている。歴史に詳しい人であれば知っているだろうが、普通には誰もピンとは来ない。
 「尾藤金左」なる人物のフルネームは、尾藤金左衛門である。渡辺京二氏の最初の著書『熊本県人』に印象深く紹介されており、この本によれば、熊本県人のいわゆる反骨的な「肥後人気質」をあらわす言葉としてよく「モッコス」という語が用いられるが、実はそうではない。肥後人気質の神髄は「ワマカシ」であり、「けっしてモッコス」なんかではなく、「モッコスという言葉がさかんにいわれるようになったのは戦後の流行」に過ぎぬのだそうである。
 渡辺氏によれば「モッコス」とは、一方で「時勢におもねることを知らぬ気骨者」、またもう一方では「たんなるへそまがり」のことを意味する。これに対して、本来の肥後人気質を言い表す「ワマカシ」とは、どんなことなのか。このことについて、渡辺氏は宮崎滔天の『肥後人物論評』を引いて、「ワマカシ」とは「おのれを馬鹿にしおわって、しこうして人を馬鹿にし世を馬鹿にする」というような心性の在りようを指す、と説いてみせる。「モッコス」よりも「ワマカシ」の方が、ひねりが利かせてあるというか、手が込んでいることになる。そして、さて、いよいよ「尾藤金左」こと尾藤金左衛門の登場である。はたして、どのような人であったか。渡辺氏は次のような逸話を紹介している。

     尾藤金左衛門は「金ギャフ」の金左衛門の子孫であるにちがいないが、三千石の名門の当主である。ある日武者 窓から首をつき出して往来を眺めていると、藩主の行列が通りかかった。「コワしくじりたり」と首をひきこめようとしたが、窓柱が邪魔して入らな い。進退きわまった彼はとっさに気ちがいのまねを思いつき、鼻汁たらしケラケラ笑ってあかんべをして見せた。殿様はことのほか不愉快に思い吟味させたところ、まったく発狂というので許すほかなかった。この後彼は生涯を佯狂に託し、奇言奇行をもって鳴ったという。

 尾藤金左衛門は、その後ほんとうに「気ちがいのまね」をし続け、奇言奇行ばかりやって生涯を過ごしたのだそうである。例えば、ある日隠居所に歌の師匠が訊ねてきた。そして、歌道を伝授して差し上げようと言い、歌というものは目に触れた感じを短く言い表して、終わりを「紅葉なりけり」とか「山桜かな」とかいうふうに、きれいな結び方をすればようございますよ、と教えてくれた。すると、金左衛門は筆をとり、
 

    八月十五日は藤崎八旛宮の祭りなれば、座敷に上りて随兵(ずいびょう)を見る山桜かな

 と書きおろした。八月に桜が咲くわけはないのだが、歌の師匠はそれは別に皮肉とも思わずに、穏やかに「いや、これは拙者の手抜かりでした。およそ国風たるものは三十一文字のうちにおさめるもので、時に字あまりもありますが、これではいくらなんでも。ご改作願います」とアドバイスを加えてやった。すると、金左衛門は「おやすいごよう」と答えて、今度は筆もとらずに口頭で詠み上げた。

     ハチガジュゴ、フッサハチマガマツリニテ、サジニノボリテ、ズビョミルヤマザクラカナ

 このまるで無茶苦茶な歌の作り方には、さすがに歌の師匠も笑いころげたのだという。まさに、奇言奇行。「おのれを馬鹿にしおわって、しこうして人を馬鹿にし世を馬鹿にする」という精神である。尾藤金左衛門はやはり生涯を「佯狂」すなわちあえて狂人のふりをすることに徹した、ワマカシそのものを生きた人なのであった。
 ちなみに、先の渡辺氏の文の最初に「金ギャフ」などという仇名が出ていたが、これについてもやはり説明が必要だ。尾藤家の当主は、代々「金左衛門」と名乗ったようだが、その同名の御先祖も熊本でよく知られていたらしいのだ。そして、他ならぬ『熊本県人』にちゃんと登場している。すなわち、御先祖・金左衛門氏はキリシタンによる天草の乱が始まった折りに、これを征伐すべき側として参加したのであった。実に勇猛果敢な人で、島原の原城攻めの時には一番槍をつけた。その際、キリシタンの一揆勢の前で恰好良く「それがしは細川家の家中尾藤金」とまで名乗ったのはいいが、その「金」まで言ったところで一揆勢から口を槍でエイヤッと突き刺されてしまった。そこで「ギャフ!」と叫んだために、以来、尾藤金左衛門には「金ギャフ」とのあだ名がついてしまったのだという。
 渡辺氏は、「こういうばか話が三百年ののちまで肥後人のあいだで語り伝えられたのは、それがよほど彼らの好みに合ったからである」と述べている。つまり、肥後人は一番槍の恰好良さを「ギャフ」との愛嬌で打ち消してみせるのであり、ここにも肥後人の心性が表れている、と渡辺氏はいうのだ。言うなれば、尾藤家は、肥後人気質を代表するモデル的役割を持った家柄だったことになろう。
 ともあれ、高群逸枝の『娘巡礼記』を読んでいて、思わぬ人名に出会った。実に、「尾藤金左」という名は、高群逸枝たちの世代ではまだ充分に人々の生活の中で記憶されていたのである。「尾藤金左」と、こう発語するだけで相手にその屈折した滑稽の意味合いが伝わり、活き活きとした反応が得られていた。そして、時間が流れ流れて今は世の中がすっかり移り変わってしまった。もう、早や、この語はすっかり忘れ去られている。というか、尾藤金左衛門の持っていたワマカシ精神自体が実体をなくしてしまっているわけだ。モッコスという語がまだ熊本県人気質の一面を表す語としてよく用いられているのに対して、「ワマカシ」は全くの死語と化している。「おのれを馬鹿にしおわって、しこうして人を馬鹿にし世を馬鹿にする」という、これはモッコスよりもずっとひねった奥深い精神の在りようだ。それがもはや喪われてしまっている。だから、「尾藤金左」の名も当然のことながら人々の記憶から抜け落ちて久しい。 人名や言葉の浮き沈みとは、そういうものなのだな、と、妙な感慨深いものが湧いたことであった。
 
 
 

▲青柿 暦の上ではすでに秋が来ているが、毎日非常に暑い。柿も、まだまだ青いだけ。もうしばらくしたら少しずつ色づくのだろうか。