第373回 補足一つ 

前山光則

 今回は、前回はっきりしていなかったことについて補足説明を加えさせてもらう。
 それというのも、若き橋本憲三と高群逸枝は大正10年(1921)8月22日に八代の正教寺で行われた八代非歌人社夏季短歌会に出席した。憲三は「病む妻を静かにおきて心虚し夕べの小家月未だ出でず」という歌を発表し、逸枝の方は「火の國の火の山に來て見わたせばわが古里は花模様かな」、これはその3年前に巡礼行をした際に阿蘇の立野あたりでの風景を見た、そのことをもとに詠った作品だったのである。しかし、それにしても「非歌人社」がどのような文学グループであったか、わたしにはまだ知識がなかったから、「わたしには予備知識がない」と記しておいたのであった。これが、その後だいぶん分かってきた。
 熊本日日新聞社編・刊の『熊本県大百科事典』に「非歌人」について一項目が設けられており、歌人・安永信一郎が記事を執筆している。それによると、短歌雑誌「非歌人」は、
「大正九年(1920)熊本を去った森園天涙の『珊瑚礁』の同人であった林靖夫の創刊による。当時、熊本はこの『非歌人』『公孫樹』『白路』の三誌が活動し、『水甕』『アララギ』などに参加する歌人たちの地方での身近な修練の場となった」
 とある。主要なメンバーとしては西村光弘・中山末熊・永松豊三・蒲池正紀・沼川良太郎・山崎貞士・宗不旱(そう・ふかん)、そして安永信一郎自身も加わっていた由である。第二次大戦まで発刊されたらしい。
 西村光弘といえば、八代で教科書販売中心の書店を営んでいた人である。蒲池正紀は後に熊本商科大学教授を務めた人で、歌誌「南風」を主宰した。若き石牟礼道子さんに「あなたの歌には、猛獣のようなものが潜んでいるから、これをうまくとりおさえて、檻に入れるがよい」と助言し、創刊したばかりの「南風」への加入を促した人である。これによって、石牟礼さんの短歌の才能は磨かれていった。それから山崎貞士は国文学者、後に民俗学者となる谷川健一の旧制熊本中学時代の恩師だ。宗不旱については、この連載コラム第360回で話題にしたように、明治17年(1884)に熊本の町なかで生まれるが、育ったのは県北の来民(くたみ)。硯職人として口を糊しつつ諸国を渡り歩き、昭和17年(1942)に歿する。波瀾万丈の一生を送った人で、そう、いわゆる放浪の歌人である。いや、実に無視できぬ人材がこの短歌雑誌には集まっていたのであった。
 そこで、熊本県立図書館に赴いて「非歌人」のバックナンバーを閲覧させてもらった。すると、全部ではないもののかなりの数が保存されていた。まず創刊号であるが、大正6年(1917)3月、林靖夫により東京で発行され、後には発行の主体は熊本の方に移る。先の安永信一郎による「大正九年(1920)熊本を去った森園天涙の『珊瑚礁』の同人であった林靖夫の創刊による」との説明は紛らわしいわけであり、つまり「大正九年」というのは森園天涙が熊本を去った年である。「非歌人」発行の年ということではない。
 この「非歌人」は、毎号表紙に自分たちの歌人としての姿勢を示すスローガンを掲げている。毎号同じような考えを発信していても、いちいち違った文面である。なかなかに意欲的なのだ。そんな中では大正10年(1921)8月号の表紙が最も簡略であり、それによると「政治即生活」「生活即芸術」「非歌人即眞歌人」「短歌の解放」「短歌の民衆化」、この5つのスローガンが掲げてある。「政治即生活」や「短歌の民衆化」ということから、プロレタリア文学を連想してしまうかも知れない。しかし、掲載されている作品にそのような傾向は見られず、むしろ「生活即幻術」や「非歌人即眞歌人」の方が彼らの方向性を端的に言い当てているかと思われる。
 橋本憲三は先の八代非歌人社夏季短歌会に出席して出詠していることから、わりと短歌作りには馴れていることが分かるが、大正10年5月号には「不覺の涙」と題する詩を発表している。憲三は、八代の鼠蔵つまり弥次海岸に高群逸枝と共にやってくる以前からすでに非歌人社とのつきあいがあったものと見てよい。
 「非歌人」には、他にも興味深い名前が現れている。大正10年7月号に「八代金曜短歌會」の記事が載っており、出詠者の中に、

                                    小山寛二
     山峡のこの坂路は雨はれて夕闇ぬちを蟇しきりなく
                                   耕 はると
     たまゆらの人の生命にたまゆらの和める心もち得ぬかわれ 

 こうした名前が見られるのには驚かされた。小山寛二は明治37年(1904)八代生まれ、後に昭和6年(1931)頃から大衆小説を書いて活躍した人だ。代表作に『曠野の父』『風雲万里』『細川ガラシャ』等がある。大正10年頃というなら、まだ17、8歳の初々しい文学少年だったことになる。「耕 はると」であるが、これは後に『詩人千家元麿』『うずまき』『天井から降る哀しい音』『そうかも知れない』等の地道な名作を著した純文学作家・耕治人(こう・はると)以外には考えられない。明治39年(1906)2月に八代の町なかで生まれているから、小山寛二よりも2つ年下である。だから、大正10年当時はまだ15歳で、旧制八代中学(現在の熊本県立八代高校)の4年生だったことになる。この人もまた、この時期に文学への目覚めを果たしていたわけだ。
 さらに、である。大正11年(1922)6月号には、蓑田胸喜(みのだ・むねよし)が短歌を22首も発表している。そのうちから3首だけ引くが、
 

     うすあゐの西のみ空の一線をかぎる山なみみ雪ま白し
     雪つめる四方の山なみ見やりつつわかれてすめるはらからをおもふ
     肉身のはらからもあれど同信の友らなづかしひたにしのばゆ

 
 あの矯激な極右の論客がこんなにも心やさしい歌を詠むのか、とたまげてしまった。蓑田胸喜は、明治27年(1894)に八代に生まれた。長じて政治学者となったが、極端な国粋主義の人として知られ、美濃部達吉の天皇機関説を激しく論難した。昭和21年(1946)には、自らの思想的責任をとるかのように自裁している。とにかく過激な論調で知られた人物だが、蓑田の死に際しては岩波書店の岩波茂雄などはその死を悼んで香典を送ったという。岩波は思想的立場は蓑田と真逆の側にいたが、それでも蓑田の人柄の誠実さには一目置いていたのであったろう。そのような面が、この短歌を味わってみると、なんだか分かるような気がした。
 思わぬことが発端となって熊本県立図書館まで出かけて行き、古い雑誌を見てみたらまたひょんなことばかり発見できた。この世に生きていると、色んな面白いことが経験できるもんなんだな。なんだか、フウーッと大きく深呼吸したい気分だった。

▲ススキの向こうに鼠蔵が見える 球磨川の分流・南川の河口から見た景色。ススキが生えている向こうの方には、橋本憲三・高群逸枝の両人が滞在したことのある鼠蔵を眺めることができる。かつて島だったが、干拓によって陸地化され、地元では「鼠蔵山」と呼ばれている。