連載コラム: 『本のある生活』 2013.12.06

第169回 ふるさと人吉にて

前山 光則

 先月9日、わがふるさと人吉で「ひとよし文学碑めぐり」と題した催しが行われ、案内役を務めた。朝の10時から人吉駅前を歩き出して、球磨川を渡り、川向こうの城址まで12箇所、与謝野寛・晶子夫妻や種田山頭火・宗不旱(そう・ふかん)・犬童球溪・上村占魚等の文学碑を見てまわったわけである。文句なしの秋晴れ、気持ちいい散策ができた。 今回、新発見があった。まず、サンホテル中庭の宗不旱歌碑である。「つく毬のまるてに来たり春の夜の月夜よろしと歌かき残す」という歌で、不旱が昭和14年に土地の知人・友人たちに連れられて料亭「まるて」に上がり、酒を酌んだ折りに詠んだものだという。不旱は人吉で機嫌良く呑んだのである。硯を作って売りながら諸国を放浪した歌人・宗不旱が球磨・人吉方面に結構知り合いを持ち、何度も訪れていたとは、今回初めて知った。
 それと、人吉城址の球磨川に面した石垣の上に軍医で俳人だった長野蘇南の「河鹿なくやねはんの城の空あかり」が刻まれた句碑があるのは、ずっと前から知っていた。「ねはんの城」とあるのは、城山のかたちが釈迦の涅槃像に似ているのである。こうしたことを説明すれば済むはずであった。ところが、この催しの案内役を頼まれてから石碑の東側の面に「春水抱城流/蒼崖舊時路/臨風舟可呼/繊月梅花渡」と漢詩が彫られていることに気づいた。「繊月」とは人吉城の別名「繊月城」のことで、石垣の上から対岸の「梅花の渡し」を眺めながらの作と思われる。作者名が「藁井雨堂」とあるのを見て、ハッとした。 もしかして、と勘を働かせ、八代市本町三丁目の正教寺に問い合わせたところ、はたしてこの藁井雨堂はそこの十六代住職であった。森鴎外の主宰した雑誌「しがらみ草子」にも寄稿していた文人でもあり、長野蘇南とは深いつきあいがあったそうだ。しかも、石碑は最初、雨堂の漢詩だけ刻まれて大正15年1月に正教寺に建立された。それを昭和19年になって人吉の楽行寺住職等が貰い受け、長野蘇南の「かじか鳴くや……」を裏に彫り込んで人吉城址に改めて建立されたのである。さらに、である。その後、石碑が災害の際に倒壊したため修復作業が行われたが、その時に本来は西側を向いていた雨堂の漢詩が東向きになり、東側の蘇南の句が西向きに、と、入れ替わってしまったのだという。人目に触れやすいのは西側の方で、見る人たちはこの石碑をすっかり「長野蘇南の句碑」とのみ受け取るようになったわけである。文学碑も、調べてみると色々とそれにまつわる話が埋もれているのだなあ、と感じ入った次第だ。
 道端で参加者32名を相手に説明していると、「ミツノッチャン、今日はなんごとね?」と声が飛んできた。子どもの頃に世話になった、銭湯のおばちゃんである。先輩からも声をかけられた。ふるさとって有り難いものだ。

▲宗不旱歌碑。人吉市上青井町、サンホテル中庭。宗不旱は、明治17年熊本市上通り生まれ。鹿本の来民(くたみ)で育つ。29歳の時から各地を放浪、昭和17年5月に阿蘇内牧(うちのまき)温泉を発った後、行方不明となった

▲藁井雨堂・長野蘇南文学碑。碑の西側から撮影。従って長野蘇南の「かじか鳴くや……」の面だけが映っているわけだが、東側の面を撮影しようとすれば石垣の端っこすれすれに立たねばならず、下の球磨川に墜落する危険がある
こんなのもアリマス

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