第375回 「月明学校」を初めて訪れた時は…… 

前山光則

 最近、ふるさと人吉市に住む友人と電話で話したのだが、友人はわたしのエッセイ集『ていねいに生きて行くんだ《本のある生活》』
(弦書房)の感想を語ってくれた。かなり細かいところまで触れた上で、友人は、
「結局、ぼくが一番面白かったのは258ページから次のページにかけての部分だな」
 こう言うのであった。そして、
「ほら、ほら、あんたが修学旅行の積立金を取り崩したっていう話、な」
 言った後カラカラと声を上げて、たいへん愉快そうであった。
 そのページというのは、わたしが東京に住む同郷の友人から電話で三上慶子著『月明学校』について聞かれたので、説明してあげた場面である。『月明学校』の内容を大雑把に説明した後、東京の友人にこう打ち明ける。

  「ほれ、ぼくが、高校二年の時、昭和三十九年に修学旅行をサボっただろう?」
  とわたしが言うと、
  「うん、覚えとる」
  そこで友人に打ち明け話をしたのである。
  「あれはな、『月明学校』の谷に行ってみたかったもんだから、修学旅行の積立金を取り崩したわけよ」
  「うん?」
  「その金で、リュックや登山靴を買うて」
  「エッ、また、わざわざ……」
  「それで、夏休みに、山越えして学校を訪ねてみた」
  「そんなことをしたとか」
  「ぼくだけじゃなか。四人で山を登った」

 この部分である。人吉の友人は、
「ココニ、アナタノ原点ガ、存在スル!」
 そう断言してから、電話の先でもう一度大笑いした。のみならず、
「ねえ、八ヶ峰分校にわざわざ行ってみた時のこと、ぜひ詳しく語ってよ」
 とせがまれたのだが、
「いや、それはまた、電話では、長くなってしまうから」
 詳しいことは直接喋るか、何かに書くよ、と約束して電話を終えたのであった。
 いや、言われてみれば、高校2年生の頃のわたしは何という向こう見ずのことをやらかしたのであったろう。三上慶子著『月明学校』を読んでひどく興味を覚え、本の舞台となった球磨郡上村(現在、あさぎり町)小中学校の八ヶ峰(はちがみね)分校(通称「月明学校」)に行ってみたくなり、その年の秋に行われる予定だった修学旅行の積立金を取り崩し、そのためのリュックサックや登山靴やテント等を購入する費用に充てたのであった。同級生にも、声をかけてみた。青木順二(あおき・じゅんじ)中島武士(なかしま・たけし)深水俊圀(ふかみ・としくに)、この3人が一緒に行ってくれることになった。
 実は、この時のことは人吉高校文芸部誌「繊月」第8集(昭和40年2月発行)に「狗留孫(くるそん)の里を訪ねて」との題で四百字詰め原稿用紙にして40枚近くの紀行文を書いており、かなり詳しいことを思い出すことができる。
 その無謀な旅は、昭和39年(1964)の夏休み中のことであった。
 8月4日の朝、球磨郡免田町(現在、あさぎり町)に集まった4人は、町の南隣り上村(現在、あさぎり町)に横たわる標高1417メートルの白髪岳(しらがだけ)を越えようと行動を開始した。地図で見ると、白髪岳の向こう側の裾(南麓)の方に熊本県と宮崎県との県境があり、分校は県境のすぐ手前に位置している。だから、山越えさえすれば辿り着けると思ったのだ。山の東の麓に皆越(みなごえ)という集落がある。そこの外れあたりから登って行けば、白髪岳を越えて西側に陀来水谷(だらみずだに)がある。その谷は狗留孫渓谷に続いているようであり、渓谷に沿って下れば八ヶ峰分校に行き着くはず。
 4人は登り始めた。だが、高校生の考えは甘かった。道らしき道がない。踏み分け道というか獣(けもの)道のようなものしかなく、藪をかき分けているうちに、夕方、方角がまったく分からなくなった。途方に暮れ、不安におののいたが、幸い藪の中で細身の体の老人に出会った。すぐ近くの谷間に小屋掛けして、山葵(わさび)栽培をしているのだという。よく手入れされた山葵畑であった。小屋に入れてくれたが、壁じゅうに缶詰が積んであって、度肝を抜かれた。老人は何ヶ月もそこに寝泊まりして仕事をするのだという。
 老人は、わたしたちの姿をじろじろ見た後、
「山を越えて、八ヶ峰まで行くてや? ワイどもは、バカなこと、考ゆるなあ」
 と言って大笑いしながら、それでも頂上まで藪をかき分けながら案内してくれた。登りはじめから10時間経過していた。つまり、もうすでにうす暗くなっていたのだ。だが、老人にとって、薄闇の中の森林も薮くらも、勝手知ったる馴染みの場であったらしい。
「悪いことは言わんから、明日は山を下りろ。こっちからは八ヶ峰に行くのは無理ゾ」
 老人は、そう警告して下りて行った。
 白髪岳の頂上は、雑木に鬱蒼と覆われ、周りは何も見えなかった。現在そこらは立木は伐採されたり枯れたりしているし、下草は鹿たちに食い尽くされ、のっぺらぼうなハゲ山と化しているので、隔世の感がある。
 われわれは、頂上で闇をまさぐりながらテントを張り、キャンプした。天気が崩れて、雨となった。テント内に雨水がしみ入り、夏とはいえ寒くてしかたなかった。4人は、持参してきたワインやウイスキーを啜って体を暖めた。パンとか握り飯を分け合って食べた。
 翌8月5日、悔い改めた4人は速やかに下山した。道に迷い迷いしながら、それでもとにかく山を下りさえすればなんとかなるだろう、ということで頑張った。山の北側の麓の上村小学校まで9時間かかった。そこで解散するつもりだったが、別れる頃になって未練が湧いた。青木順二君は家の都合でどうしても帰る必要があった。でも中島君と深水君は、
「よし、行こう。諦めてはいかんからな」
 と同調してくれた。そこで、上村の集落の中心部で食料を買い込み、権現谷というところへ行き、榎田(えのきだ)林道と呼ばれる山道の脇、ちょっとした空き地にテントを張った。林道を上って行けば、白髪岳の右肩のあたりに温迫峠(ぬくみさこ・とうげ)がある。標高は925メートル。そこを越えて行けば八ヶ峰に行ける、と村の人が教えてくれたのであった。
 権現谷で一夜を明かした3人は、8月6日の朝7時15分に発っている。「狗留孫の里を訪ねて」に、こう書いている。
「温迫峠までの山道は、八分通りできあがっている。白髪岳山中での苦労を思うと、まったく楽であった。道があるだけでもありがたかった」
 この榎田林道は、その後ほどなく熊本県側から宮崎県えびの市とを結ぶかたちで全通した。ただし、かつても今も舗装はなされていない。四輪駆動車でないと通行は心許ない。
 八合目あたりから先はしばらく踏み分け道というか、道らしい道はなく、ただ藪くらの中に人の歩いたような感じに雑草が踏み分けられているのを辿るしかなかった。
 そして、温迫峠。天気が良くなっていたから、頂上からの眺めは北側に人吉盆地が広がり、うっとりしてしまった。
 峠を越えると、そこら一帯は川内川(せんだいがわ)の水源地である。この川は全長137キロメートル、鹿児島県川内市に河口があるので「鹿児島県の河川」とのイメージが強い。だがこのように水源は熊本県の白髪岳山中にあり、狗留孫渓谷を流れ下った後、宮崎県えびの市の盆地内を這ってから鹿児島県へと入るのである。
 わたしたちはすでに充分に疲れ切っており、足が痛んでいた。ただ、それからはずっと下りの道が続いたので、登って来るときよりはマシであった。しかも峠を越えてからの道は、木馬道(きんまみち)。道にレールの枕木みたいにして丸太を並べて、その上を、材木をいっぱい積んだ木馬(木橇)を牽(ひ)くための作業道である。丸太のレールは歩きにくいが、藪をかき分けるよりはずっと楽であった。「いたむ足を引きずりながら、何度も谷川に足をすべらしそう」になりながら渓谷沿いの悪路を下って行った。ただ、分かれ道では、一度、違う道へと入り込んでしまい、これは実に気分的にくたびれてしまった。
 谷を下りきると、かつて森林軌道の終点であった地点へ出た。「もうながいあいだ使っていないとみえて、機械の上まで草がおおいかぶさっていた」と書いている。後で分かったことだが、かつて昭和36年(1961)までは宮崎県えびの市の飯野駅前の営林署からここまで森林作業用の軽便鉄道が入っていたのである。途中、別の谷への分軌まで行われていたので、本線と分線を合わせた運行距離は31キロメートルほどもあったそうだ。
 やがて、午後4時過ぎ頃、狗留孫神社入り口のところまで辿り着いている。狗留孫渓谷は熊襲族発祥の地などと土地の人たちが言い伝えているが、なんでもかつて一帯はこの神社を中心にして修験者たちが修行する霊山であったらしい。
 そして、目指す八ヶ峰はもう近まっていたのであった。
 午後5時ちょっと前頃になって前方に人家が2、3軒見えた。軌道跡に沿うようにして、どれも小屋みたいにこじんまりした家だ。立ち寄って家の人に聞いてみたら、そこが八ヶ峰であった! 分校は高台にあるというので、もう堪えきれず、連れの2人を後にしてまず自分だけ急いで坂を登って行ったら、あった。目の前に現れた。呆気なかった。
「坂を登りきった左側には、八峰分校がたっていた。校庭では数人の子供たちが遊んでいたのであるが、私を見るとこわいものでも見たかのように、あたふたと校舎の方へ逃げていった。彼らが逃げたのも、無理はなかった。ボール紙のむき出しになった帽子。色あせて、泥のこびりついているリュックサック。それに、土ふまずのところに大きな口を開けている登山ぐつ。汗と雨、泥などがまじりあって異臭を放つアンダーシャツ。……どうみても私はこじきであった。しかし私は、はずかしくなんかなかった。ただうれしかった」
 「狗留孫の里を訪ねて」にそう書いており、高校2年生のわたしは有頂天だった。後で分かったことだが、八ヶ峰分校は校舎100坪、運動場300坪である。ほんとにこじんまりした谷間の学校であった。ここで作家・三上秀吉(みかみ・ひできち)氏とその娘である慶子さんは戦中・戦後の約9年間、子どもたちの教育に情熱を注いだのである。
 『月明学校』によれば、現在の上皇がまだ皇太子であった頃に家庭教師を務めたバイニング夫人が、わざわざ森林軌道のトロッコ列車に揺られて訪れて、子どもたちと親しく交わり、記念樹として欅(けやき)を植えたのだそうだ。それは昭和25年(1950)10月23日のことであり、夫人は分校訪問の後は人吉盆地にも廻って、戦前にアメリカの社会学者ジョン・エンブリーが滞在し研究生活をやった須恵村(現在あさぎり町)も訪れている。そのバイニング夫人が植えた欅は、校舎の屋根よりも丈が高くなっていた。
 分校には30歳台後半かと思える先生がいたが、たいへん親切であった。わたしたちがこれからさらに歩いて飯野駅まで行くんだと言ったら、それは止したが良い、とアドバイスしてくれた。今から歩くなら、駅に着くのは夜中になってしまうし、途中からバス路線があるものの、夜は走っていない。無論、駅に着いても夜は汽車の便もないのだから、ここに泊まりなさい、と言って、わたしたちを教室に入れてくれた。ありがたいことであった。さらに、わたしたちが校庭の隅っこで飯盒炊飯をしていたら、大きな胡瓜を何本か持ってきてくれた。採れたての胡瓜で、涙が出るほど嬉しかったし、囓ってみたらみずみずしくて甘くて、あの味わいは忘れられない。
 日暮れ時の谷は、蜩が鳴いた。そんな中で炊飯をし、カレーライスを作り、缶詰を開け、魚肉ソーセージも食った。無論、いただいた胡瓜も平らげた。風呂には入らず、泥まみれ、汗臭いまま寝た。川内川のせせらぎが聞こえ、カジカが盛んに鳴いた。
 翌8月7日は、午前7時半に分校を発った。「狗留孫の里を訪ねて」によれば、泊めてもらったお礼に米3升、インスタント食品少々、それに新刊書1冊を先生に渡している。つまり、余った食料はすべて差し上げたわけだ。それから、「新刊書」ははっきりと覚えている。『月明学校』の著者・三上慶子さんの長編小説『流感の谷』である。当時、河出書房から刊行されて間もない、だから「新刊書」だった。狗留孫渓谷を舞台にした、推理小説的な要素の強い作品だった。
 3人は飯野駅を目指して歩いたが、途中で挫けてしまった。足の痛みが耐えがたかった。坂下というところにバス停があったので、バスを頼った。飯野駅に着いたのが、午前11時頃。吉都線に乗り換えて、吉松駅へ出た。吉松駅からは、肥薩線である。汽車が矢岳トンネルを抜けて熊本県側に入った時は、他愛もなく嬉しかったのを覚えている。
 人吉駅に着いたのが、午後4時前だった。 「深水君は湯前線に乗りかえなければならなかったので駅に残った。中島君と私は駅を出た。たった四日間、人吉を留守にしていたのであったが、私にとって、それは一カ月にも二カ月にも思われた」
 わたしは、そう記している。こうした気持ちは今でも新鮮に甦ってくる。実際、ほんとに長い間遠いところへ出かけて、ようやく生還したという気分だった。だから、駅から20分ほど歩いて家に帰り着いた時、母や兄が、
「あ、お帰り」
 と、まるでいつもと変わらぬ顔つきで振り向いたのには拍子抜けしてしまった。なんだか、まるでちょっとそこらまでお遣いにでも行って戻ってきたのであるかのような……、しかしそれもまた今となっては懐かしい。
 ちなみに、積立金を取り崩してしまった修学旅行であるが、秋になって10月か11月に予定通り行われた。同級生たち500名近くの団体旅行、1週間ほど京都や奈良や関東方面を廻ったのである。旅行に加わらなかった(あるいは、加われなかった)生徒は20名余いたのではなかったかと思う。無論、わたしたち積立金取り崩しグループも、である。修学旅行団が出かけているあいだ、教室でしんねりむっつり自習に励むしかなかった。正直、ガランとした教室は身の置きどころがない、という感じだったので、自習などしていてもちっともおもしろくなかった。
 さて、旅行団が帰ってくる日、留守組の中にバイクを持っている者が数人いた。彼らが、
「おい、どこかでお迎えしてやろうや」
 と言い出した。おお、それは良い! 彼らのバイクの荷台に載せてもらって、人吉駅から7キロほどのところに球磨川の支流・万江川(まえがわ)があるのだが、そこへ行った。そして、川原に立ち、肥薩線の鉄橋を見上げるかたちで汽車を待った。1時間ほど待ったろうか、修学旅行団を乗せた汽車がやってきた、そして、わたしたちの前をシュッシュラ、シュッシュラと通過する。同級生たちの顔がいっぱい目に飛び込んできた。思い切り手を振った。手を振りながら、やはりさびしいのは嫌だからな、と思ったのをはっきりと覚えている。
 ――と、これがあの高校2年生の時の、修学旅行積立金取り崩しに関する思い出のあらましである。人吉の友人はこれを読んでどう思うだろうか。いや、反応はもうすでにはっきり見えているような気がしてならない。

   
 

▲八ヶ峰分校の生徒たちと三上父娘 子どもたちに囲まれて、右が三上慶子さん。左が父親の作家・三上秀吉氏(三上慶子『月明学校』所収)。