第401回 『生き直す 免田栄という軌跡』 を読んだ

前山光則

 ついこないだ桜が咲き始め、喜んだばかりだった気がする。だが、今はもう若葉が輝いているではないか。一日一日の過ぎて行くのがほんとに早いこと、ため息が出てしまう。
 この頃読んだ本で高峰武著『生き直す 免田栄という軌跡』(弦書房)は、たいへん興味深かった。一昨年の12月に95歳で亡くなった免田栄氏、日本で初めて確定死刑囚から再審無罪となった人である。著者の高峰武氏は熊本日日新聞社で社会部長、編集局長、論説委員長、論説主幹を歴任し、その間ずっと免田氏に関わってきた。『完全版 検証・免田事件』『冤罪 免田事件』等、免田氏については以前からまとめて来ており、このたびの一冊はいわば「集大成」とみなしていい。
 西日本新聞の新刊書評(4月16日付け朝刊)にも書いたことであるが、なにより免田氏の辿った道の険しさに圧倒された。まず、免田氏のアリバイを認めて熊本地裁八代支部の西辻孝吉裁判長が再審開始を決定したのは、昭和31年(1956)8月のことである。この時に再審の門が開かれて無罪となっていたならば、免田氏は「三十歳過ぎで、人生のやり直しも可能だった」のである。実際に無罪判決が出たのはそれから27年後の昭和58年(1983)で、ご本人はもう57歳になっていた。これだけでも免田氏の歩んだ道の険しさが偲ばれる。
 自由の身となってからの免田氏は、妻の玉枝さんと共に大牟田市で余生を送り、司法の世界は免田事件をすでに終わったこととして扱った。だが、著者によれば「免田さんにとってはあくまで、現在進行形、今も生きている事件」であった。なにより驚かされるのが、初め免田氏には年金が受給されなかったことである。免田氏は、平成21年(2009)6月、年金受給資格を求めて国に申し立てを行なう。これが正式に認められるには、平成25年(2013)6月まで待たなくてはならなかった。また、それより先の平成17年(2005)3月には、再審裁判で無罪が言い渡されても原審の「死刑」はまだ取り消されていない、ということであえて自らの再審無罪判決に「再審」を申し立てた。免田氏は闘いつづけねばならなかったのである。
 しかし、この本のどこに一番惹かれたかといえば、昭和60年(1985)秋に免田氏と熊本県水上村在住のトルストイ研究家・北御門二郎氏が熊本日日新聞で対談をしたくだりである。それも、対談前のことについて考えさせられた。対談する前に、北御門氏の方から「一緒にお風呂に入りたい」との要望が出されたのだという。高峰氏と担当者は、「『お風呂?』といぶかしがった」が、とにかく探してみた。すると、他でもない新聞社内に社員たちの使用する大きな浴場がある、ということに気づいたので、そこへ入ってもらうことにした。対談が終わってから、高峰氏は、免田氏に「お風呂でどんな話をしたのですか」と聞いてみた。すると、北御門氏は免田氏の背中を流してやったが、その際に「本当にやってないんですか、て聞いてきた」のだそうである。「どう返事をしましたか」と高峰氏が聞いたところ、免田氏は「やってません、と言うたタイ」ということであったそうだ。それで、高峰氏はこう述べる。
「免田さんの故郷、人吉・球磨地方に住む北御門氏には免田さんに関するいろんな話が入っていたのだと思う。その中には、免田さんにとっては顔をしかめたくなるような話もあったに違いない。それやこれやを踏まえ、トルストイアンとしての北御門さんなりの『心にストン』と落ちることが、裸のままでのストレートな質問だったのだと思った」
 お互い裸の状態で風呂に浸かり、その中での「本当にやってないんですか」との北御門氏の質問、これに対して免田氏が「やってません」と答える――実は、この部分を読んで、免田栄という人物の器、その大きさにすっかり感じ入り、ため息が出てしまった。
 普通の人間ならば、どうであろうか。「本当にやってないんですか」、「やってません」、この質問・回答は、衣服をまとった状態のまま行われてはいけなかったのであろうか。北御門氏からすれば、人を信用するか否かについて自分で考え得た一等真剣な方法だったのだろうと思われる。一方、免田氏としては不快感を露わにするなり、腹を立てたりしてもかまわなかったはずだ。しかし、そこのところを穏やかに受け止め、答えたのであった。いやあ、まさしく長年普通でない状態で生きて来ざるを得なかった苦労人でなくてはできない、きわめて自然体の大人の受け答えだったのではなかろうか。免田さんはえらいなあ、と、改めて心から尊敬したのであった。
 それから、免田氏がカラオケを好んだという逸話、これがまた考えさせられる。とにかく、免田氏や報道関係者、支援の人等は、折りに触れてよくカラオケを愉しんだそうだが、ある時こんなことがあったという。
「この日のカラオケ担当は甲斐氏。免田さんの曲を次々に入れていくのだが、しばらくして甲斐氏がこんな声を上げたのだった。『みんな、別れの歌だなあ』」
 では、さて、免田氏が好んでうたったのはどんな曲か。三橋美智也の「達者でナ」「哀愁列車」、春日八郎の「別れの一本杉」「赤いランプの終列車」。高峰氏は、
「『泣けた 泣けた こらえきれずに泣けたっけ』という『別れの一本杉』の歌詞を、免田さんは春日八郎ばりの高い音で歌うのだが、言われてみればみな別れの歌ばかりである。不思議といえば不思議な気付きだった。アルコールも入ってにぎやかさが増す中、『どこで覚えましたか』と歌の合間に何気なく聞くと、一言、簡単な答えが返ってきた。『あっち』。免田さんは拘置所のことを『あっち』とか『あすこ』とかで表現することが多い。何気ない、『あっち』という一言があらためて免田さんの三四年を振り返らせたのだった」
 と書いている。免田氏が「あっち」で覚えた三橋美智也・春日八郎の名曲が「みんな別れの歌だなあ」と、甲斐という人はよくもまあ気づいたものであった。免田氏が経験したたくさんの「分かれ」、その重さ悲痛さに胸が詰まってしまうではないか。実はわたしも、一度だけであるが、友人たちと一緒に人吉市内のスナックで免田氏を囲んでカラオケに打ち興じたことがある。とても楽しかったし、免田氏が三橋美智也や春日八郎を好んで歌うのを「やあ、わたしもこの歌手は大好きですよ」と、たいへん嬉しかった。しかし、それらが「みんな別れの歌」であるなどとは、迂闊にも気づかなかった。我ながら何という鈍感さであるか、と、自らを恥じてしまった。
 この本の最後に付された「資料 小さなメモ」がまた、見過ごせない。これは著者が免田氏と会った際に「備忘録のようなメモを付けるようになった」ので、その中からの抄録である。この中で、高齢者施設に入った免田氏を高峰氏が2019年1月17日に見舞いに行った。その際、免田氏の口から次のような一言が漏れたそうだ。
「いい経験をした よう闘ってきたなあ」
 なんという味わい深い感慨であろうか。「よう闘ってきたなあ」、高峰氏もこれには「万感の思いがこもるのであろう」と記している。 妻・玉枝さんのことも出て来る。2017年7月15日の「無罪判決から三四年の集い」において、玉枝さんは、「三四年と一口に言うが、最初の五年間は嵐のようでした」と語っている、これは実に重たい発言だ。またその同じ年の8月23日、高峰氏らが訪ねて行ったところ、免田夫妻は大牟田駅前の行きつけの店で八代市在住の支援者夫婦と一緒に昼食中だった由である。その折りは、玉枝さんが、こう語ってくれたという。
「免田の性格はいろいろ変わったが、ずっと変わらなかったのは『おれはやっていない』ということだった」
 高峰氏はこれを聞いて「ずしりと重い言葉」と書いている。そしてまた玉枝さんの言ったことを受けて、免田氏から「よう生きて来た」との一言が洩れたのだそうだ。これもまたまことに重みのある感慨なのではなかろうか。 免田栄氏が亡くなられてから後のことで、2021年6月27日には次のようなこともメモされている。
「玉枝さんから電話がかかってきた。元気そうだ。『みんなと一緒にご飯を食べているが、ただただ時間が過ぎるのを待つばかり』と退屈そう。夕食は五時からで、その後、部屋で焼酎を一杯だけ飲んでいる。『二杯は飲み切らん』と言う」
 そして、玉枝さんは、「免田は夢にも出て来んよ」と語ったそうだ。夫に先立たれて、後に残った者としてはせめて夢の中ででも会いたい。なのに、現れてくれない。他の箇所でも、免田氏が夢に現れてくれぬことについて「いっちょん。どこか別のところじゃなかろか」「いっちょん出らっさん」との玉枝さんの嘆きが記されている。そのさびしさ、切なさ、惻々と伝わってくるなあ、と思う。高峰氏は別の箇所で「思えば、玉枝さんは、免田さんあっての玉枝さんだった」と述べているが、まことにそうなのであろう。そんなふうで、「資料 小さなメモ」は味わい深くオーラを放っている。
 この『生き直す 免田栄という軌跡』一冊、どうか広く読まれてほしいものだ。
 
 
 

▲写真 ハナミズキ わが家の庭先のハナミズキである。今年も白い花がいっぱい咲いた。