前山光則
毎日、暑苦しい。今年は6月下旬には早やばやと梅雨が明けしてしまい、以後、猛暑の連続だ。わたしは7月10日頃からの数日間体がとてもだるくてならなかったのだが、どうも、夏バテ気味だったのではないだろうか。
こないだの7月4日、朝起きてまず一番に「あれから2年だなあ……」との思いが湧いた。2年前のこの日、球磨川流域を中心に豪雨が襲い、各地で大変な状態となった。死者84名、行方不明者2名。わたしなどは、高校時代つまり昭和38・39・40年の3年連続で球磨川が梅雨末期に氾濫し、殊に40年の時がひどくて1学期の期末考査が中止となった。学校が臨時休校になった代わりに、生徒会の活動に加わって1週間ほどは球磨村や五木村方面に救援物資を配るのを手伝ったものであったが、2年前の豪雨はあの時よりもっとはるかに凄かったよなあ……。そのような思いが、あらためて胸にこみ上げてきたのであった。
そして、翌7月5日になって地元新聞の朝刊を開いたら、「被災菓子店『やり切った』」との大きな見出しが目に飛び込んできた。わがふるさと人吉市青井町のいわみ商店が7月4日をもって暖簾を下ろした、との記事だ。エーッ、あのおいしい長万十が食えなくなってしまうのか!
いわみ商店は、大正時代から続いてきたという老舗である。実においしい「長万十」で知られている。
この長万十というのは、記事に「たっぷりのあんこを細長く延ばし、薄い米粉のもちもちした皮で包むのが特徴」とあるとおりで、白い、10センチほどの長さの餅菓子である。普通は「長万十」と呼ばれているが、「いわみ万十」あるいはたまに「竿万十」などと呼ぶ人もいる。人吉市民ならば誰もが知っており、まさに郷土の味、子どもの頃から慣れ親しんできた饅頭だ。口に入れるとやんわりした甘みが心地良くて、実に幸せな気分になれるのであった。それがもう食べられなくなってしまうのか。ああ、閉店の話を知っていたら、昨日は朝早くから買いにいくのだったのになあ、と、さみしくてならなかった。
記事によると、いわみ商店は2年前のあの大水害の日、いつものように早朝から長万十を作っていた。だが、店のすぐ近くが球磨川と支流・山田川の合流点なのだが、そちらの方から濁流が一気に押し寄せてきたという。「自宅兼店舗は高さ1.6メートルまで浸水。1階の店舗では、あんこを練ったり米粉をついたりする機械も壊れた」というから、大変な被害である。しかし、店主の岩見欣吾さん(76歳)は、「引き際は自分で決める。洪水なんかに負けて店を閉めたくはない」と奮起した。奥さんともども、息子さんたちの助けも受けながら店内を片づけて、機械やボイラーを修理し、冷蔵庫やレジは新調した。被災して約2ヶ月後には店を再開できたそうだから、岩見さんは根性者である。
店は、以前通り繁盛したと思う。とにかくいわみ万十は人気がある。午前10時過ぎ頃に店を訪れても売り切れていることが多かった。つまりは朝早くから買いに来る人が多くて、開店間もなくにはなくなってしまうのである。
そのようにも人気があり、市民から親しまれて来たいわみ万十。ただ、岩見さんは以前から脊柱管狭窄症や膝の痛みを抱えていたという。店を再開したものの、水害に遭ってからの無理が祟ったか、だんだん体の状態が悪化してきた。それでも我慢して仕事をつづけていたが、昨年末になってついに「夫婦で話し合って閉店を決めた」のだそうだ。閉店の日は岩見さんの誕生日である7月4日と決め、そして、今まで頑張ってきた、と記事には書いてあった。なんと、御自分の誕生日があの大水害の日付けと同じなのである! 年末に閉店を決心してから今までの半年余、無理しながらでも仕事を続けてきたのだから、頭が下がるではないか。
その7月4日には、まだうす暗い午前4時半から続々と客が集まり、整理券を手にして開店を待ったというから凄い。息子さん2人と知人たちが手伝いに来てくれて、午前7時50分から販売したが、「多めに準備したまんじゅう5個入り約100パックは、40分で売り切れた」のだそうだ。岩見さんは「水害に負けたくないという気持ちがあったから、ここまで頑張れた。最後までやり切れた。悔いはない」と語り、「晴れやかな表情」であったという。
記事を読んで、7月4日未明から押しかけたいわみ長万十ファンたちの気持ちは痛いほど分かるなあ、と思った。なによりわたし自身が幼少の頃からなじんで来たし、ふるさとを離れて八代に住むようになって久しいものの、たまに人吉に行くことがあれば買って帰ることしばしばであったからである。
そう言えば、数年前の秋の頃に八代から数人の知人を案内して人吉市内を散策したことがあり、その時午前10時過ぎ頃にいわみ商店の前を通りかかった。ふと店の方へ目をやると、おお、長万十が珍しくまだ売り切れずに店先に数パック残っているではないか! ためらいもなく駆け寄り、1パック買おうとした時、横合いから同年配の男性が割り込んできた。
「こらあ、何か、わりゃあ、よそ者じゃろうが。俺は、地の者ゾ。ほ、おばちゃん、長万十を1パック頼むばい」
と怒鳴ったのだった。電光石火の早業である。店のおばちゃんは苦笑いし、わたしの連れの者たちは呆れていたが、わたし自身はスンナリと順番を譲ってやった。そう、いわみの長万十のファンは「熱い」のである。地元での支持の厚さ(熱さ?)に改めて感じ入ったことであった。
そのいわみ商店が、ついに長い歴史に幕を下ろした。実に、誠に、さみしい。思えば、あの大水害は、残念至極なドラマをたくさん生じさせたのである。
だが、こうした話題だけではない。球磨川流域のあちこちで、復興に向けて日々色んな人たちが努力を重ねている。ふるさとへ向けて祈りたい気持ちだ。
たとえば、である。人吉市下林町の大和一酒造元は、7月4日付けで新商品「球磨川」を発売した。酒造元では、あの大水害の後、蔵の中にいつの間にか天然の酵母菌が新たに棲みついてくれていることに気づいたのだそうだ。それを用いての新たな焼酎造りである。川は氾濫して人びとの生活に多大な被害をもたらしてしまったが、しかし、思えば、氾濫した川は流域に苦しみを与えただけではなかったのである。上流からまた新たな豊穣をも運んで来てくれたのであり、新商品「球磨川」はまさに球磨川の恵みによって造られたわけである。
また、球磨村では、以前、球磨村観光案内人の会が『球磨村七十九集落巡り』というおもしろい郷土紹介の本を出したが、今年の3月にはその『資料編』が刊行されている。副題に「令和2年7月豪雨災害の記憶と教訓を後世に」とあり、タイトル通りあの大水害の記録集である。
さらに、7月に入ってからは、人吉市の中央出版社から7・4水害坂本記録集発行委員会・上村雄一編『坂本からの証言・2020年7月4日球磨川水系豪雨記録集』が刊行された。こうした出版物に目を通して、感動した。特に後者は、八代市坂本町の被災の様子が実に生々しい。ちょっと判断が狂ったり、タイミングがズレてたりしたら命を落としてしまっていたような被災者自身の体験談がぎっしり語られていて、あの日のことが生々しく甦ってくる。大水害の体験談は、まさに恐怖にさらされた人でなければ語れない。そして、語られなければ消え失せてしまうのである。体験を反芻するのはさぞかし辛かったことだろう、と察する。しかし、それを乗り越えて綴った人たちや書かせた編集者氏に、心から敬意を表したい。こんなふうな地道な取り組みが、これからの球磨川流域を甦らせる栄養分となって行くのだと思う。