第443回 山奥の一軒宿

前山光則 
 
 前々回つまり第441回には『宿帳が語る昭和一〇〇年』という本から渥美清について引用しておいたのだが、実はあの本には以前取材のために立ち寄ったことのある温泉宿も出てきていた。懐かしかったから、今回触れてみようと思う。
 それは、群馬県利根郡みなかみ町の最奥部、法師(ほうし)温泉「長寿(ちょうじゅ)館」である。
 ここは、著者が「一世を風靡した『フルムーン』のキャンペーンと聞けば、記憶に残っている人も多いのではないか」と言っているように、かつて1枚のポスターによって全国に広く知れ渡った温泉宿だ。「フルムーン」キャンペーンは、まだJRが「国鉄」であった昭和56年(1981)に行われたのだが、そのときのポスターはたいへん話題になったので覚えている人も結構多いはずだ。ポスターには、俳優の上原謙と高峰三枝子が混浴している写真が使われていたのである。これが、『宿帳が語る昭和一〇〇年』に出てくるJR東日本の担当者の言い方を借りれば、
「そうしたら駅などに貼ったポスターが盗まれて……、また貼っては盗まれるのを繰り返したんです。おかげ様で、‟フルムーン夫婦グリーンパス„ チケットが爆発的に売れました」というから、とにかく反響が半端でなかった。「熟年夫婦が温泉旅館で寛ぐというコンセプトが時代に合ったのだろうが、高峰三枝子さんのふくよかな胸も話題になり、週刊誌で熾烈な報道へと発展した」と著者が評するとおりである。
 そう、あれは確かに非常に目立つポスターだった。そして、そのポスター写真の撮影場所が、他ならぬ法師温泉の一軒宿「長寿館」であったのだそうだ。 
 法師温泉は、上越新幹線上毛(じょうもう)高原駅から猿ヶ京(さるがきょう)温泉までバスで30分、さらにそこから町営バスに乗り換えて20分ほどである。みなかみ温泉郷の一番奥まったところ、というより山間部の最奥部にあり、その谷には人家が長寿館一軒しかない。ちなみに、長寿館あたりの標高は約800メートルである。宿の人の話では、大正時代の初め頃までは他にも温泉宿が数軒あったそうだ。群馬県の一番奥に位置しているから、北側つまり目の前、三国街道の峠を越えれば新潟県、苗場スキー場である。そう、もう「雪国」だ。ちなみに、法師温泉あたりでも冬場の積雪が例年1メートル50センチから70センチにまで達するほどだというから、峠の手前からしてすでに「雪国」だといって良い。
 長寿館の建物は立派で、風格がある。なにしろ、本館の玄関が建てられたのは明治初期だとのことで、歴史的建造物だ。さらにまた、ポスター撮影の場となった別棟の大浴場が、木造平屋建て、寄棟造り、杉皮葺きの、広くておちついた雰囲気である。この浴場の建立は明治28年(1895)で、鹿鳴館的な風情を意識して建ててあるそうだ。湯は、浴場の底のあちこちから自然湧出している。つまり、谷底の河原に温泉の湧き出る一帯があり、そこをスッポリと覆うかたちで大浴場が建てられているわけだ。泉質はカルシウムナトリウム硫酸塩、湯の温度は一年を通じて36度から41度だそうで、まことに程よい湯加減、入浴客はついつい時間を忘れてしまうこと必定である。いや、わたし自身がそうなってしまった。
 『宿帳が語る昭和一〇〇年』には、ここを愛好した多くの文人墨客が紹介されており、與謝野鉄幹・晶子夫妻、川端康成、直木三十五等が訪れたという。芸能人では古今亭志ん朝、夏目雅子、勝新太郎、忌野清志郎、等々。
 そして、この本では触れられていないが、実は歌人・若山牧水もここには泊まりに来ている。それは大正11年(1922)秋のこと、牧水は紀行文の名作「みなかみ紀行」に結実する群馬県の山奥方面への長旅を行っており、その途次、立ち寄るのである。軽井沢から草津へ越えて、沢渡(さわたり)温泉、四万(しま)温泉と辿った後、10月22日、法師温泉で一泊する。この道中、自らの内なる「みなかみ」志向というものを吐露する。

 「私は河の水上(みなかみ)といふものに不思議な愛着を持つてゐる。一つの流(ながれ)に沿うて次第にそのつめまで登る。そして峠を越せば其処(そこ)にまた一つの新しい水源があつて小さな瀬を作りながら流れ出してゐる、といふ風な処に出会ふと、胸の苦しくなる様な歓びを覚えるのが常であつた」
 
 牧水は宮崎県の坪谷(つぼや)というところに生まれ育った人だが、そこは椎葉村の奥から発した耳川が海へ注ぎ出ようとする十数キロ手前のところにあり、家の前を流れる坪谷川は耳川へと合流する。いわば、牧水は川の水源地帯で育った人と言ってよいから、「河の水上(みなかみ)というものに不思議な愛着」を持つのは当然の成り行きであったろう。そうした水源への志向がここでも発揮されるのである。つまり、法師温泉も「河の水上(みなかみ)」、源流域に湧出する名湯と言ってよい。 
 牧水は近くに住む短歌の弟子たちと一緒に長寿館に一泊し、彼らと楽しく湯に浸かり、酒を味わうのである。訪ねて来た若者のうちの一人などは、懐から牧水の歌集『くろ土』を取り出したのだが、口絵写真と牧水本人とをしばし見比べた上で、
「矢張り本物に違ひはありませんねエ」
 と言って「驚くほど大きな声」で笑ったという。山間僻地に住む文学青年にとって、著名な歌人の来遊はたいへん刺激的な出来事であったのだと思われる。
 一夜明けて一行は宿を出る。そして、吹路(ふくろ)という急坂にさしかかると、前方から「十二、三から廿歳までの間の若い女たちが、三人五人と組を作つて登つて来る」のに出会う。これは、越後瞽女(ごぜ)たちであった。真っ先の一人だけが「眼明(めあき)」で、あとはみな盲目。牧水の弟子の一人が、
「法師泊りでせうから、これが昨夜だつたら三味や唄が聞かれたのでしたがね」
 と言って笑う。ほんとに、牧水たちは、ほんのちょっとタイミングがズレていたために、残念、瞽女たちの芸に接することができなかったわけなのであった。
 そう、法師温泉は大変な山奥にありながら、昔も今も来遊客が多い。「名湯」と呼ばれるに値する、味わいある温泉場だ。
 わたしがここを牧水の足跡を辿るための旅をしながら訪ねたのは、平成20年(2008)6月2日だった。朝、麓の湯宿(ゆじゅく)温泉からバスで猿ヶ京温泉へ行き、そこから村営バスに乗り換えた。これが、法師温泉までの便は日に4本しかないというから、やはりたいへんな僻地である。バスから下りると、ほんとに谷底に建物は長寿館が1軒あるだけなのであった。しかし、そのような草深い辺鄙なところなのに、旅館への入り口は江戸時代の関所みたいな趣きであり、本館の佇まいはどっしり落ち着いている。しかも、館内は客が多くて、賑やかだ。事前に長寿館に連絡を入れておき、宿の人に取材のための時間を作っておいてもらったから良かったものの、これが飛び込みで行こうものならまるでダメであったろう。
 しかし、宿の人はとても親切であった。長寿館のことを詳しく説明してくれた後、それで終わりではなかった。温泉に浸かってみないか、と勧めてくれたのだった。これは大変ありがたいことであった。それで、ご厚意に甘えて例の大浴場に入らせてもらったのだが、まことに広々としており、適温だし、いつまでも浸かっていたいほどであった。実際、1時間を超えるくらいに長々と楽しませてもらって、気持ち良いし、窓から見える谷間の景観も風情があった。正直な話、ほんとに時間を忘れそうであった。
 長湯させてもらって後、重ね重ねお礼を申し上げて宿から出たのだったが、いや、これは入浴だけでは明らかにもったいなかった。ちゃんと予約を入れておき、ゆっくりと一晩過ごしてみるべきだったのだよなあ、と大いに悔やまれたのだった。
 あそこは絶対に泊まって、楽しんでみるべき温泉場だ、と、今でも思っている。そして、不甲斐ないことにいまだにその願望を実現できていないままである。