第40回 「伊豆の踊子」を読む

前山 光則

 あちこちで梅が満開。町の商店街を歩くとおひな様が飾ってあり、その代わり球磨川の青海苔採りはもう終わろうとしている。政治情勢は安定せず、大相撲が八百長問題で大揺れ、霧島連山で新燃岳の噴火が続く等々、世の中なにかと落ち着かないが、それはそれとして季節は確実に移って行きつつあるのだ。
 ところで、第38回で川端康成に触れたが、その後「伊豆の踊子」にも目を通してみたのである。これも「雪国」同様、若い頃はさして面白いと思えなかった記憶がある。それが、今度はひどく惹(ひ)かれた。
 主人公の一高生「私」は、自らの中に「孤児根性」があって性格が歪んでいると思い込んでおり、その憂鬱さに耐えきれず伊豆半島への旅に出たのだ。それゆえ旅の途中で踊り子一家と出会い、彼らがごく自然に接してくれることが嬉しくてならない。彼らが「いい人ね」「それはそう、いい人らしい」「ほんとにいい人ね。いい人はいいね」などと自分のことをたがいに評しあっているのがそれとなく聞こえた時、言いようのない有り難さを覚える。さらに彼ら一家は、旅先でなぜか貶(さげす)まれる存在だ。こうしたことのいちいちが、今回、ビリビリと伝わってきた。
 14歳の踊り子がまた、共同湯の中から自分らの姿を見つけると、裸のまま両手を伸ばして何か叫ぶからあどけない。だが「私」に対してそんなに親しくしてくれるものの、男の人と2人きりになるものでないとの母親の言いつけには決して逆らわない。だから、彼女は「私」と距離を保つ。その踊り子が、東京へ帰る「私」を港に見送りに来る。
「乗船場に近づくと、海際にうづくまつてゐる踊子の姿が私の胸に飛び込んだ。傍に行くまで彼女はじつとしてゐた。黙つて頭を下げた。昨夜のままの化粧が私を一層感情的にした。眦(まなじり)の紅が怒つてゐるかのやうな顔に幼い凛々(りり)しさを与へてゐた」
 こういう箇所も、若い頃にはなんとも思わなかったが、今は、感情を抑えつつ別れの悲しさ寂しさに耐えようとしているのだなあと、こちらも胸が痛くなる。若い頃読んだ時にはこのような気持ちは起きなかったのだ。
 それと、踊り子一家は伊豆半島へは仕事をするため出かけて来ており、生活の本拠は伊豆大島だ。しかも、もともとは山梨県の甲府の人間なのだという。そこで地図帳を開いて伊豆大島、伊豆半島、甲府とつなげてみれば、ははあ、たがいに近い。あのあたり生活圏が重なっており、昔から人の往来が結構あるわけか。現地の人たちには当たり前のことだろうが、九州に住む人間としては新発見だった。 若い頃読んだ文学作品も、今になって手にとってみるとこんなふうに印象が異なるし、発見がある。川端作品に限らず、他にもいろいろ読み返してみると面白いのではなかろうか、と思ったのだった。

▲朝の商店街。手作りの小さなひな人形が商店街の道の真ん中に展示されていた

▲菜の花。球磨川沿いの谷間だが、わりと日当たりが良い。菜の花がいっぱい咲いていた