前山 光則
先日、熊本県人吉市の人吉城歴史館で催されていた秋季特別企画展「愛郷詩人・犬童球渓」を観た。硯箱・数字譜・楽歌集・書簡といった遺品類や写真・資料等がうまい具合に整理分類して展示され、犬童球渓の生涯とその仕事の軌跡をゆっくり辿ることができた。球渓は本名を信蔵(のぶぞう)という。明治12年に今の人吉市の西間下町に生まれ、東京音楽学校(今の東京芸術大学)を卒業し、兵庫県や新潟県等で教鞭を執った後、請われて帰郷したのが大正7年であった。以後は人吉高等女学校や中学校等で音楽教育にあたった。昭和10年に退職してからは藍田村(現在、人吉市)の村会議員や方面委員を務めたりして、音楽以外のことでも郷土に貢献する。
この人の遺した作詞・作曲は360余編もあると言われるが、全国的には「故郷の廃家」(ヘイス作曲)と「旅愁」(オードウェイ作曲)の作詞で知られている。「故郷の廃家」の「幾年ふるさと来てみれば/咲く花鳴く鳥そよぐ風/門辺の小川のささやきも/なれにし昔に変わらねど/あれたる我が家に/住む人絶えてなく」は、北国に住もうが南国に居ようがジーンと感動できるのではなかろうか。イメージが一定の地域・地方に限定されない、普遍的な〈日本人のふるさと〉像が示されていると言える。しかも、2編とも新潟高女に居た頃、26歳の時に書かれている。ふるさと人吉を遠く離れて北国で教師をしながら、孤絶感に悩まされていたようなのである。
更け行く秋の夜 旅の空の
わびしき思いに ひとりなやむ
恋しやふるさと なつかし父母
夢にもたどるは 故郷(さと)の家路
更け行く秋の夜 旅の空の
わびしき思いに ひとりなやむ
この「旅愁」に表出されたふるさとや父母への熱い思いは紛れもなく球渓自身のもので、胸の内から沸き立ったのであったろう。だが、同時に、これは、田舎で親に育てられ、大きくなり、やがて余所(よそ)へと出て行って学を修めた近代日本人が自らのふるさとをふり返る時の、広く共通する思いではなかったろうか。「故郷の廃家」「旅愁」2編は、謂(い)わばみんなの代弁者となったわけだ。
我れ死なは
やきて砕きて粉にして
み國の畠のこやしともせよ
球渓は昭和18年に64歳で世を去るが、これは辞世の短歌である。自分が死んだら、亡(な)きがらは焼いて、砕いて、畑の肥やしにでもしてくれ、と言い遺した球渓。胸が痛くなってしまう歌だ。得難い人だったのだなあ、と、思いを新たにして歴史館から出た。