前山 光則
最近、赤星陸治(あかほし・りくじ)の『水竹居文集』という本をおもしろく読んだ。
この人は明治七年、八代郡鏡町(現在の八代市鏡町)の下山家に生まれ、後に隣の文政村・赤星家の養子となる。東京帝国大学を卒業した後、三菱財閥に入り、三十七歳で岩手県の小岩井農場長として赴任。明治四十四年に東京へ戻ってからは三菱地所の仕事をし、丸ノ内ビルを造ったのはこの赤星陸治である。そのように実業界で力を発揮する一方では「水竹居」と名のって俳句を詠み、文も綴った。「あひ年の先生持ちて老の春」という句の「先生」は高浜虚子のことだ。「峯二つ乳房のごとし冬の空」「風鈴の鳴らねば淋し鳴れば憂し」等、味のある句をずいぶん遺した。昭和十七年、六十八歳で亡くなっている。
『水竹居文集』には小岩井農場や丸ノ内ビルの話、俳句のことなどがいっぱい綴られているが、その中でも故郷の話に特に惹かれた。
小さい頃、陸治の家の前に大きな竹藪が茂り、横には稲荷堂があって、その薮やお堂の床下には狐がたくさん穴を掘って棲んでいたという。ある若い衆が女をかどわかしてあちこち連れ回したが、どこかに泊まって目を覚ますと、なんと肥溜めに寝ていた。これは狐に化かされたのだ、とか、あるいは夜おそく何者かがコツコツと家の戸を叩く。出てみると、誰もいないので、そんなときには、ああ、きっとお稲荷さんが来たんだよ、と言っていた等々、狐はなにかと話題にされた。村人たちは狐を畏れて、稲荷堂に握り飯や揚げ豆腐をあげていたし、初午の日などにはお堂の前で相撲をとったり芝居をしてお祭りをしたのだという。赤星自身、狐火など度々見ていたというから、明治十年代の日本の村はまだこのように人間と動物とが心通わせる小宇宙をなしていたのだな、とため息がでてしまう。
さてまた、陸治の育った村には実に剽軽なお医者さんがいた。この人は、ある年のお正月に、顔を鍋墨で汚して、ぼろを着て、ムシロをかぶり、つまり乞食に身をやつして村中を廻った。皆は、乞食にお餅をくれたり、お茶を飲ませてやったりしたが、後になってあれは実はお医者さまが乞食になりすましていたのだったと判明し、みんなで大笑いしたのだという。翌年、村はえらく不景気であった。するとそのお医者さんは奥さんと謀(はか)って大きな荷車と牛をどこからか借りてきた。家の書生を牛曳き係りにし、自分と奥さんは三月の内裏様に変装して荷車の上に乗った。そのような恰好で村中を練って廻り、荷車の上では天皇様の真似をしたりして村人たちを大いに笑わせ、元気づけたのだという。
狐の話といいお医者さんのエピソードといい、なんと人間味あふれる世界であることか。赤星陸治は、故郷のこうした話を愛情深く大切に書き記している。この人の心の大きさ広さが分かるなあ、と感動したのだった。