前山 光則
暑いある日、白土康代著『占領下の新聞――別府からみた戦後ニッポン』(弦書房)を読み始めたらおもしろくて止められなくなった。
先の大戦の際に、温泉都市・別府は幸運にも戦災を受けなかったそうである。敗戦と同時に復員兵や引揚者など様々な事情を抱えた人たちであふれかえった。そこへ進駐軍がやってきて基地を作り、約7年間居座るのである。6万5千人だった人口が、すぐに10万人に達したという。そんな敗戦直後の別府、この本によれば3年半ほどの間に52種類もの新聞が出されたそうだから凄いではないか。部数の多いのもあればごく少部数の場合もあり、創刊号だけで潰れたのもあるし、かなり長続きした新聞もあったという。それらは、米国メリーランド大学図書館のプランゲ文庫に保存されているそうだ。
何よりも、新聞から読み取れる当時の別府の様子が興味深い。「西日本医界」では、戦時中に「粗製乱造され、下手をすると合法的殺人を犯さぬとも限らぬ医師」が外地から引き揚げて来て、医師過剰になっている現実が報じられている。大分県は食糧事情が良いので、医者もそれをあてにして急ピッチで増えた、というのだ。「九州民報」には、戦災や引揚で生活の基盤を失った人が町なかに百名近くいて、街頭での行き倒れが増えているという現実が書かれている。「衛生新聞」の記事では、「蚊もノミもシラミも居らぬ楽土を建設」するために開かれる「鼠族こん虫駆除会議」には大分軍政部の米軍将校も出席して叱咤激励しているものの、うまくいかない。寄生虫駆除促進のために宝くじまでつけて駆除剤普及に努めているが全市民の2割程度しか服用していない、と嘆く。行き倒れやノミ・シラミ・寄生虫の話題は、わたしなども同じ時代を生きてきたから充分に実感できる。
消費都市としての別府の姿が出てくるのが「大分新聞」で、当時の上田保大分市長の「別府のおかげで大分が困る」との発言が載っている。別府から大分市へ買い出し部隊が殺到するため、大分の物価が高騰している。また、野菜などを大分からわざわざ別府へ持っていくからますます値が上がる、と嘆くのである。そして別府にはスリも多かった。全国一斉スリ検挙が行われた際に別府は断トツに検挙数一位だった、と報じているのが「九州民友新聞」である。スリは、肩に濡れ手拭いをひっかけて歩く入湯者の後をついて行って、その手拭いをソッと盗るのが良い練習になる、と語っているのだそうで、別府はスリにとって練習の場としても最適だったことになる。
他にも敗戦直後ならではのなまなましい話が次から次へと出てきて、一気に読み上げてしまった。同時代を生きた人間として懐かしくもあり共感も湧いた。あの頃ならではのエネルギーがあるなあ、とも思った。現在の日本は清潔で整っているが、力強さはないからな。いつの間にかため息をついていた。