前山 光則
暦の上ではすでに春だが、実際には毎日寒くてならない。そんな寒い夜、テレビを観ていたら、若い女性歌手が「新宿情話」という実にわびしい歌をカバーして唄っていた。
新宿は西口の
間口五尺のぽん太の店が
とうとうつぶれて 泣いてるヒロ子
三畳一間で よかったら
ついておいでよ ぼくんちに
久しぶりに聴いたので、懐かしかった。これは昭和59年に世に出た歌で、ちあきなおみが唄ったと記憶しているが、あとで調べたら細川たかしもレコーディングしたらしい。でも、細川たかしには似合わない曲だ。
いや、それはともかく、「新宿情話」の歌詞には「三畳一間」が出てくる。これは、今はもうほとんど死語と化して、若い層にはまったくピンとこないのではなかろうか。最近ではもう、どんなケチな貸間でも三畳のところなんかなかろう。「新宿は西口の」でわたしの頭に浮かぶのは、新宿西口ガード横の飲み屋街だ。現在では「思い出横丁」などとヤワな呼び名となってしまっているが、もともとは「ションベン横丁」である。歌の中で、「ぼく」は、飲み屋街の中のちっぽけな居酒屋がとうとう潰れた、従業員のヒロ子はかなしくて泣いているだろう、よかったら「ぼく」のところへお出でよ、と呼びかけている。だが、その部屋たるや「三畳一間」なのだから、これは人間一人だけなら寝ることはできるものの、布団を敷けばその裾は壁に遮られて捲れてしまう。そこへもう1人転がり込んできたら並んで寝るのは無理で、折り重なるしかない。まあ、愛し合う2人ならばそれも良かろうが、ただ、冬場はともかくとして夏の暑い時期にはムンムンして眠れぬはずである。
このような推測を断定的に言えるのは、自分が2回経験しているからである。最初は学生時代の昭和43年から45年にかけて、1年半ほど千葉県船橋市内のアパートにいたことがあって、その時の3畳の部屋代が4500円だった。もう1回は教員になってすぐの昭和47年4月からのちょっとの期間、熊本市の健軍町で経験している。あの頃、「三畳一間」はさほど珍しくなかった。貧乏学生や安月給の勤め人にとって安上がりに住まうことのできる部屋だったのであり、わりと余裕のある者たちは4畳半や6畳の部屋に住んでいた。だが、さて、3畳の部屋に住んで夏場の猛暑の時期をどう過ごしたか。地獄のような熱気だったはずだが、ところが夏場の記憶が意外とぼんやりしている。これはどうも、船橋時代には昼の間働いて夜に大学の二部(夜間部)に通う生活だったので、昼間ほとんど部屋にいなかった。熊本では猛暑時期が到来する前に別の広いアパートに移った。そんなわけで暑さの記憶が薄いのであろう。
それにしても、3畳の部屋はしんじつ狭苦しかった!「三畳一間で/よかったら/ついておいでよ/ぼくんちに」だなんて、冗談じゃない。口が裂けても言えなかったなあ……。