第十回 わびしいばかりの「加藤司書記念碑」

浦辺登
 
『南洲遺訓に殉じた人びと』10
 
 平野國臣の銅像がある西公園一帯は遊歩道が整備されている。展望台からは、博多湾を望むことができる。遠く、箱崎埠頭や西戸崎(福岡市東区)が見える。あらためて、外海に開けた福岡、博多であると実感できる。
 この西公園の遊歩道を歩いていると、「加藤司書記念碑」に出くわす。加藤司書とは、福岡藩家老として主君の信任が篤く、一時期は藩政を司っていた人だった。元治元年(一八六四)年八月、幕府は長州征伐を命じた。この時、西郷隆盛と謀って長州征伐軍の解兵を行なったのが加藤司書だった。維新の功労者である西郷隆盛の陰になり、加藤司書の功績も名前も広くは知られない。
 加藤司書は征長軍総督徳川慶勝に「今は、国内騒乱の時ではなく、一丸となって外敵に立ち向かわなければならない。真の勤皇であれば、長州藩を討つのではなく、征長軍を解散すべき」と説いた。これは福岡藩主黒田長溥(薩摩島津家からの養嗣子)の意向でもあった。すでに三十六藩の軍が広島に集合し、数を恃んでの幕軍は勢いを増しているかのように見える。しかし、実際は厭戦気分であることを加藤司書は見抜いていた。この解兵のとどめは、薩摩の西郷隆盛が一万余りの薩兵を引き上げるとの宣言だった。この長州征伐解兵において加藤司書の名を史書に見ることはない。多くは、西郷一人の策略と記されることが多い。
 しかし、加藤司書はこの征長軍解兵に導いた喜びの歌を残した。それが今に伝わる『皇御国(すめらみくに)』である。
 
 
皇御国(すめらみくに)の武士(もののふ)はいかなる事をか勤むべき、只身にもてる赤心(まごころ)を君と親とに尽くすまで
 
 
 その加藤司書の功績をたたえる記念碑が西公園山頂にあるが、鬱蒼と繁る木々に隠れて散歩を楽しむ人も気にもとめない。ひとつに、銅像が再建されないままというのもある。
 
 
 
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▲加藤司書記念碑案内看板