前山 光則
最近になって、わが家にようやく『石牟礼道子全集・不知火』全17巻・別巻1が勢揃いした。この全集は刊行が開始された時点から1冊ずつ取り寄せていたのだが、あと3冊までとなった頃、勤めを定年で退職した。すると、正直言ってこの全集は価格が高い。「石牟礼さん、出版社はどうしてもっと気安く買える値段の全集を作ってくれなかったんでしょうね」と文句言いたい心境だった。なんとかして全巻揃えてしまわなくては、とは念じつつ、財布の中身が頼りなくて今までズルズルと踏ん切りがつかぬままであった。しかし、どこかで踏ん切りをつけなくてはならぬ。今回、思い切って第15巻・第16巻・第17巻を購入し、これでめでたく全巻がわが家の本棚に並んだのであった。
それで、手許に届いた3冊をしみじみと開いたり閉じたりしていたのだが、そのうち第15巻には石牟礼さんの歌集『海と空のあいだに』(平成元年、葦書房・刊)以後の短歌作品が収録されている、ということに気づいた。それは「裸木(はだかぎ)」とのタイトルがつけられた18首で、最初に「『春の城』終らんとして原城を訪れてより、にわかに歌兆す」との詞書が付され、平成10年(1998)12月から翌年1月にかけての作と銘記してある。前々回に触れたように、石牟礼さんは昭和30年代の中頃から短歌創作はほとんどしなくなる。ご本人の中で「歌との別れ」があったのだ。しかし、天草四郎の乱を主題にした長編小説を手がけて、新聞連載が続いた。それが終わる頃、どうした動機でか「にわかに歌兆す」という心の動きがあったわけだ。
裸木の樹林宵闇にしばし映ゆ赤き小径をゆくは誰ぞも
裸木の銀杏竪琴のごとくしてあかつきの天人語もまじる
冬月の下凍りゆくあかときぞ裸木の梢わが魂(たま)のぼる
生きている化石の樹ぞと思ひつつ千年の夢われに宿れる
夢の外に出づれど現世にあらずして木の間の月に盲(め)しいたりけり
石牟礼さんは具体的ななにごとかを詠っているわけではない、と思える。むしろ自らの魂の中にうずまくものを掴み取り、具象化せぬうちに並べており、読者としては夢まぼろしの境へ誘い出された気分である。お若い頃の短歌は、これに比べたらむしろ具体的で、詠嘆があり、あれはやはりなんだかんだ言っても石牟礼さんの屈折した「青春」が表現されていたのではないだろうか、と思ってみたくなる。
冬茜(ふゆあかね)樟(くす)の木群の重げなるにはかに顕(た)つも母の面影
かなしみを口にのぼせぬ人なりきいかばかりをぞ胸にかかえし
わが母のかなしみうつつに胸にくる冬の茜の消えなむとして
遠き世の悲しみうつつになりくるを抱きて母の笑まいありしよ
これは石牟礼さんの母親のことが詠まれた作だ。母・はるのさんが亡くなられたのは昭和63年(1988)5月16日であった。没後10年経ってのこの4首、母親を喪った悲しみはほとんど薄れぬまま作者の胸の内にある、ということが察せられる。
こんなふうに読み進めて行ったのだが、最後の2首に至って不意打ちを食らった。
湖の底よりきこゆ水子らの花つみ唄や父母恋し
水底の墓に刻める線描きの蓮や一輪残夢童女(ざんむどうじょ)よ
この2首、「前山夫妻と市房ダムが干上がったのを見に行って」との詞書がある。石牟礼さんはエッセイで何度もわたしたちのことは書いてくださっているが、しかし短歌作品で話題にされた記憶はない。だからビックリした。熱いものがこみ上げてきた。
確かに、石牟礼道子さんを市房ダム(昭和35年竣工)に連れて行ったことがある。それは2度にわたっており、最初は昭和53年(1978)2月だった。その頃わたしは熊本県立多良木高校水上分校に勤めており、学校も職員住宅もダムの少し下流、水上村の岩野という集落にあった。2月4日に分校で生徒たち相手に講演をしてもらい、職員住宅に泊まってもらった。その際、わたしたち夫婦は市房ダムを案内したのである。実は亡妻・桂子はこの村の湯山集落の出身である。湯山はダムよりも上に展開する一帯だから、水没を免れている。球磨川本流と湯山川が合流する一帯に展開していた村の中心部分・新橋集落が、まるごとダム湖に沈んだのである。石牟礼さんが来てくださった頃、ちょうど冬場の渇水期で、ダム湖はかなり広く干上がり、昔の新橋集落の家々や田畑、役場跡、発電所跡、墓場等が泥を被りながらも日の下にさらされた状態となっていた。そのようなところを案内したわけだが、石牟礼さんにとってたいへん印象に残る風景となった。それで、石牟礼さんから請われて平成6年(1994)9月20日、再びダム湖を案内している。その折りは熊本日日新聞社の高嶋正博さん・佐藤惣助さんも同行している。前回よりも渇水がひどく、下流の八代市では球磨川堰を越える水が見られなくなるくらいのひどい状態であった。だから市房ダムの湖底も、昭和53年の時以上に実に広々と昔の状態がさらけ出され、渇いて、ひび割れさえ生じていた。カンカン照りの下、石牟礼さんはわたしたち若い男どもと一緒に崖を這い下って、足下のおぼつかない湖底を熱心に歩き回り、特に墓場跡にはかなり時間を割いて足を止めていた。水子たちの墓も確かにあったし、「線描きの蓮」や戒名「残夢童女」も間違いなく墓に刻まれていた。石牟礼さんの観察の細かさに驚嘆するばかりだ。こうした湖底で見た景観が元になり、大きく膨らんで石牟礼さんの力作長編小説『天湖』(平成9年11月、毎日新聞社・刊)ができあがって行く。
そして、この「裸木」18首は、「道標」第30号(2010年9月・発行)に掲載されたのだという。そうであるならば、わたしも購読している雑誌なので目に留めたはずなのだが、なぜかまったく記憶にない。今回、全集の残りを購入して初めて気づいたのであった。なんということだ。妻は、自分が癌で苦しんでいながら、石牟礼さんのパーキンソン病が不治の難病であることを「かわいそうだ」と、いつも気にかけていた。2人で、何回も見舞いに行った。7月18日に妻が亡くなった後ようやく購入したこの第15巻、もっと早く買っていたら2首の短歌にも妻が生きているうちに気づいて、見せてやることができたのだったのに、と、自分の迂闊さ、ルーズさが悔やみに悔やまれて、情けなくなってしまった。
涙が湧いて、しばらくは止まらなかった。