第340回 夢を見なくなった

前山 光則

 どこか分からないが、教室で授業をしていた。生徒が多かったわけではない。二三人しかいなかったが、そのうちの一人の男の子がしきりに絵を描いている。見ると、稚拙だが電車の絵で、田園の中を走っている様子である。電車には紅葉の絵がいっぱい描かれており、カラフルだ。電車の走るのを田んぼの中から猫や犬たちが見ているという絵柄で、愉しそうだ。
「だけど、今、授業中。黒板の方を向いて、勉強の方に集中しような」
 とその子に話しかけたのだが、その途端、目の前が一変してしまった。そこはもう教室でなく、狭い家の中であり、桂子が畳の上に座っており、
「やっと授業が終わったね。ご苦労さん」
 そんなことを言うから、言われてみればこちらもその気になってしまうのだった。やれやれ授業が終わった。寛ぐことができる。
「さあ、朝ご飯にしましょ」
 でも、今から朝飯とはおかしな言いぐさだ。授業が終わったのだから、晩御飯ではなかろうか、などと考えていたら、
「さ、さ、電車が待ってるから」
 桂子はわたしを急がせる。見れば、余所行きのしゃれたワンピースを着て、お化粧もしており、確かに今から出かける構えである。
 そして、居間の外の方で重たい響きが聞こえたので窓を開けたところ、そこには確かに、今、電車が着いたばかりだった。さっき生徒が描いていたような、紅葉の絵が描き込まれた電車である。2、3人が下りてくる。中から運転手が、
「早く乗ってくださいよ」
 急かせるから、わたしもつい慌ただしい気分になって靴を履き、桂子と一緒に電車に乗り込んだ。
 電車が進み出してからようやく分かったのだが、川村駅、西村駅、一武駅というふうに無人駅がつづく。古ぼけた木造の駅、見覚えがある。というより、昔から馴染んでいる駅だ。そうだ、これは昔の湯前(ゆのまえ)線、現在はくまがわ鉄道という名になっている。そうであるなら電車はこれから湯前駅を目指すのである。
「湯前駅前で、飯を食う?」
 と桂子に言ったら、うれしそうに肯く。
 しばらくは窓外の山や川や町並みやらを眺めて過ごした。でも、もう湯前駅も近かろうと思えるような頃になって、窓の外がおかしい。いつもの沿線風景ではないのである。この路線は盆地の真ん中を走るのであるが、今、窓外を移りゆくのは真っ赤に紅葉した雑木の林立する風景であった。桂子に、
「いつもと違うぞ」
 と言ったが、
「ふーん、そうかなあ」
 別段おかしいようには思っていないふうだ。だから隣席の年増の御婦人に、
「くまがわ鉄道、ですよね」
 訊ねてみた。そうしたら、御婦人が目を輝かせて、
「この頃は、線路が分かれたとですばい」
 まったく知らないことを言い出すのでビックリしてしまった。へーえ、この鉄道、分岐して新しい路線ができたのであったか。身を乗り出して、窓外をよく見た。行く手に、村が見えた。村と言っても、5、6軒の家がかたまり、こんもりした神社が見える。そんな小さな、どちらかと言えば集落だ。周りには紅葉がいっぱいで、目がクラクラするくらいである。電車はまっしぐらに小村へ突っ込んで行った。そして村の中に入り込み、ようやく停車した。昇降口から下りてみると、目の前に木製の賽銭箱がある。みんなが次から次に降り始めた。そして、賽銭箱のところをすり抜けて神社本殿へと入って行く。桂子は傍らでニコニコして立っている。いったいここはどこなのだろう。あたりを見回すが、食堂らしきものなど一軒もないのであった。ただただ紅葉が目に眩しい。
    *               
 ――――実は、これは今年の5月31日の「夢日記」に記した夢である。「桂子」というのは、わたしの妻だ。
 わたしは自分の見た夢を「夢日記」と題したノートに記録しておく習慣がある。こまめに記すわけではない。いったいに夢というのは儚(はかな)いものであり、茫々漠々としているのがほとんどで、目が覚めて夢の中身を辿ろうとしてもよく覚えていない場合がとても多い。だから、メモするのを諦めてばかりであるが、たまに目が覚めてからもいやにはっきりと記憶に残り、始めから終わりまでを辿れるものがある。無論、そういうのでもはたして本当に夢の詳細であるかどうかは自信がない。ないのであるが、覚えているかぎりは書き付けてみる。このようにして、今まで「夢日記」メモを続けてきている。
 実は、わたしの「夢日記」、先の5月31日が最後の記述なのである。これ以来、覚めてもありありと蘇るような夢を見ておらず、目が覚めてもふり返ることのできない希薄なものばかり。さみしい限りである。夢を見たり見なかったりするのが本人のどのような心的状態を示すものなのか、わたしは知らない。心理学者は色々研究し、説明してくれるのだろう。だからその道の専門書をひもとけば、今、わたしの「夢日記」の記述が今年の初夏の頃からずっと更新されないことについて何らかの答えを出してくれるのかも知れない。だが、今の自分にはそのような本を探して、目を通してみる意欲は湧かない。日々の雑事をこなすのに忙しい、と言いたいだけである。
 雑多な事物の出てくる夢は、見なくても構わない。親しかった人たち、お世話になった方たちが、ほんの一瞬で構わぬから夢に現れてくれぬだろうか、と思う。そのようなこともないわけである。思えば、弦書房創立者の三原浩良氏が亡くなられたのが昨年の1月20日。11月30日には熊本の島田美術館の島田真祐氏。今年に入って2月10日に作家・石牟礼道子さん、5月17日には写真家の麦島勝氏が死去された。それぞれ、生前、実に親しくしてもらい、お世話になった方々である。こうした方々が、ちっとも夢の中に現れてくださらない。そればかりではない。去年の10月18日には姉が逝った。そして、今年の7月18日、妻・桂子が還らぬ人となった。姉も、妻も、夢の中にまったく姿を見せてくれぬのである。すぐに後で忘れてしまう、単純で希薄な夢しか見ない。いや、それどころか、夢らしき夢を見ないまま朝を迎えることが多い。これは、どうしてなのだろう。
 逝ってしまった人たちと、せめて夢の中で会いたいし、久しぶりの会話も交わしたいものだ、と思う。
 ともあれ、「夢日記」の記述は今年の5月31日で止まったまま。こうした状態がいつまで続くのか、毎日がさみしくてならない。
 
 
 

▲冬山茶花。家の近くを歩くと、色んなところに山茶花が咲いている。灰色の冬空の下、この花を見るとホッとする