第347回 70代は第二の絶頂期?

前山 光則

 最近読んだ本で嵐山光三郎著『ゆうゆうヨシ子さん』は、とてもおもしろかった。
 著者の母親ヨシ子さんは現在102歳、長寿である。なんでも、62歳の頃に自分の母親を追悼して「母の日の星またたきて闇に消ゆ」と句を詠んで以来、俳句作りが習慣になったという。もともと夫が俳句をするし、著者の嵐山氏もたまに句をひねる習慣はあるので、親子で趣味が一致するわけである。家の中で句会ができるというのだから、なんとも羨ましい親子関係だ。ヨシ子さんは、夫に先立たれた時には「花のもと散るを待たずに逝かれけり」と詠む。そして、俳句作りを止めることなく歳を重ねて現在に至るのである。
 
 
 郭公の遠音聞きいる湯の香り
 春風に襁褓(むつき)の波の白さかな
 秋夜覚めきのふと同じこと思ふ
 初夢で昔々の人と逢ふ
 空っぽの郵便受けや木の葉舞ふ
 
 
 こうやって引用すれば切りがなく、ヨシ子さんの句はなかなかに味わいがある。
 著者によれば、俳句を詠むからボケないのか、ボケなくてしっかりしているから俳句が作れるのか、はっきり分からない、しかし母親ヨシ子さんの句を見ると今なにを考えているのか察しがつくし、生きていく上での「念力」は俳句を詠むから出てくるのだ、と断言する。老いてゆく人間がどう日々を過ごしていくべきなのか、ヒントを与えてくれるおもしろい本であった。
 だいたい、著者の考え方が前向きで好ましい。あつい夏の日に、「あんまり暑い日がつづくと、かえって生きているありがたさに気がつく。生きているから暑いのだ。死んじゃったら、せっかく夏なのに暑いことがわからず、楽しくないでしょ」などと暑さをありがたがるのだから、ちょっと普通の人と違う。でも、言われてみれば確かに「生きているから暑い」のであって、死んでしまってからはもはや暑さ寒さなど全く感じとることはできない。まことに、生きていればこそのことである。ならば、前向きに夏の酷暑と向き合って「ああ暑い、くそ暑い、俺は生きているゾ」と愉しめばいいわけだ。さて、今年の夏、そのように前向きの日々を実践することができるだろうか。どうなるか分からぬが、今のところ「よし試してみるか」という気分である。
 嵐山光三郎氏は、次のようなことも言う。
 
 
 じつのところ、ぼくは七十歳になるのが 楽しみであった。七という素数が好きで、七十七歳が「第二の絶頂期になる」、という確信がある。七十七歳にして、大いにグレるという予感がする。これを七十代絶頂説といいます。人によっては、八十歳がウルトラ絶頂期。九十歳はミラクル神秘期である。
 
 
 この人は、こう断言しても「これから第二の青春だ!」などと青臭いことを考えているのではないそうだ。それはそうだ、七十歳にもなってそんなことほざくようであれば、まわりから馬鹿にされるだけだ。そうでなく、「昔から青春というのが億劫」であるし、「若造りのジジイというのもなんとなく恥ずかしい」「老骨をひきずって走る市民ランナーも苦手」なのだそうで、つまりとにかく年食ってから無理に若者のフリをするつもりもない。しかしながら「実は絶頂期」なのだそうで、では何がそうなのか知りたい。嵐山氏はそこのところは具体的に述べていないのだが、しかしこの本の面白さそのものがなにより氏の「絶頂期」を示しているのかもしれない。老境に入っていよいよ円熟、色んなものがよく分かり、心が自由になって、こだわりもないという境地。『ゆうゆうヨシ子さん』にはそのような落ち着きが湛えられているので、それが「絶頂期」であるのかも知れない。
 
 
 

▲レンゲ畑。今、近くを歩くと田んぼにレンゲソウがいっぱい咲いている。後で肥やしになるのだそうで、この田もいずれ耕され、梅雨が近づく頃には稲田になるのだ