前山 光則
新型コロナウイルスが衰えを見せないどころか、感染者が増えるばかりで、どこまでこうした状況が続くのだろう。世界中がこの問題にさらされている。この世に生きていると、まったく色んな災厄が降りかかってくるのだな、と、つくづく思う。先行きが心配でならないが、今、誰もが耐えて日々を過ごしているのだから弱音を吐くわけにはいかない。
さて、この連載コラム第361回「東京に居た頃は」の中で、昭和44年頃の東京では催涙ガスの刺激から目を護るためにレモンを持ち歩いていた、という思い出を披露した。だが熊本の田舎に住んでいると、同世代の者にそんな話をしてもほぼ通じない。だから、
「しかし、同世代にそんな話をしても、たとえ学生運動に熱心だった人であっても『へーえ、そんなことやってたわけ?』と珍しがられる。してみれば、あまり広くは知られていない催涙弾対策法だったのであったろうか」 とも記しておいた。
そうしたら、間もなく、福岡市に住むある人から「レモンは催涙ガス対策になるんですね」とのメールが届いた。なんでも、永田和宏著『現代秀歌』に掲載されていた道浦母都子の短歌に、次のような歌があるそうだ。
催涙ガス避けんと秘かに持ち来たるレモンが胸で不意に匂えり
良いことを教えてくださり、とても嬉しかった。確かにこの歌の作者はレモンを携帯しているのである。それは料理に使うためでなく、明らかに「催涙ガス避けんと秘かに持ち来たる」とある。機動隊がデモ隊と衝突して、デモ隊の抵抗が激しい場合、機動隊は彼らの勢いを削ぐために催涙ガスをぶっ放す。当然、あたりには刺激の強いガスが立ちこめて、こうなると目はショボショボし、痛いし、涙がやたらと流れて困ってしまう。そんな時にレモンを潰し、その汁を目に塗れば良いわけである。思うに、あれはガス液の成分を中和する働きがあった。不思議な程に目の調子が回復していた。
道浦母都子の歌は、つまりはそのような催涙ガス対策に用いるために秘かにレモンを懐に忍ばせてデモ隊に加わっていた情景が詠まれていることになる。当然、闘いのさなかであるに違いない。緊張がずっと続いたかと思われるが、しかしそのレモンが「不意に匂えり」というのである。緊張のさなかの、レモンのまことに清々しい香り、これはまた格別のものがあったかと察せられる。殺伐とした状況を題材にしながらも清冽な叙情を表現したこの「催涙ガス……」の歌は、この人の代表作の一つと言えるのではなかろうか。他に、
神田川流れ流れていまはもうカルチェラタンを恋うこともなき
同じ作者のこういう歌もよく知られていよう。「カルチェラタン」はフランスのパリの学生街であり、1960年代のとりわけ五月革命の時には反体制学生運動の中心地であったそうだ。そして、日本では東京都千代田区の駿河台あたりが「日本のカルチェラタン」と称ばれていた。駿河台の御茶ノ水駅あたりは渓をなし、神田川が流れていて、だから「神田川流れ流れて」である。自分たちの血を沸き立たせていたものがすでに衰え、過去のこととなってしまったという、喪失感のようなものがこの歌には言い表されている。
道浦母都子という歌人は、わたしと同世代、昭和22年(1947)生まれの由である。いわゆる「団塊の世代」だ。「催涙ガス……」や「神田川……」で見て取れるように、早稲田大学に在学中、学生運動に積極的に関わったようである。だから、作品には「秘かに」とあっても、実は結構いつもレモンを携帯し、行動していたのではなかったろうか。
わたしの場合は、家から仕送りを受けずに昼間仕事をし、夜になって法政大学の二部(夜間部)に通った。働き続けなければ食いっぱぐれる身の上だったので、学生運動に加わる余裕はなかった。ただ、あの頃の東京の中心部ではあっちこっちで機動隊と学生との衝突が起きていた。関係ない人間でもたまたま近くに居合わせることはしばしばあったので、催涙ガスにはいつも悩まされていた。歌舞伎座裏のビーフシチュー屋で働いていた頃には、機動隊に追われた学生たちが店にドドドッと何人も逃げ込んで来たことが数回ある。当然、店内にも催涙ガスが充満してしまった。
そんなふうであったあの頃、ある時、同じアパートに住んでいた東京大学の学生が「レモンを潰して、汁を目に当てれば大丈夫だぞ」と教えてくれた。彼はいわゆる「ノンセクト・ラディカル」、どの党派にも属せずに集会やデモに参加していたのであった。家からの仕送りが少ないために、闘争の合間を縫ってアルバイトに出ていた。金があるときには「おい、肉を焼いて食わないか」と誘ってくれた。一緒にマトン(羊肉)を買いに行き、アパートの共同炊事場でフライパンを使って焼いて食ったことが何回もあった。熱々のマトンを頬張りながら、安物のウイスキーを啜りながら、彼は闘争の意義を論じるのが常だったが、あるときレモンの効用をも教えてくれたのであった。いつの間にかアパートにいなくなったが、もしかして警察に捕まったのであったか。今頃、どんな老後を送っているだろう。
それにしても、身近な範囲で同世代にこんな話をする際、七十年安保とか学費問題とかヘルメット姿の学生たちがデモしただとか、色んな面で話題が共通するのに、こと催涙ガス対策のレモンとなると、決まって「へーえ、知らないなあ」とのポカーンとした反応になってしまう。今までそれが不可解でしようがなかった。だが、最近になって、もしかしたらああいうふうなレモンの使われ方は東京あたりでしか見られなかった現象であったのかも知れないなあ、とも思う。すなわち、地方にまで広まらぬ内に学生運動の嵐が静まってしまったのではなかったか? いや、部分的には少しだけ伝播したろうか。いわゆる「七十年安保」だとか「大学紛争」とかが盛んだった頃から、すでに50年が経過している。ずいぶんと年月が経ってしまった。催涙ガス対策にレモンの使用がどこで考えられ、盛んに使われ、どのあたりまで普及し、いつ頃消えてしまったのであったか、といった、いわば「レモン民俗学」、そうした「調査」をすべき段階に来ているのかも知れないなあ――などと考えてみるのであるが、ちょっと大袈裟になってしまうだろうか。