第382回 特別企画展が終わって、今は

 
 あちこちで桜開花の報が飛び交って、春まっただ中の感じである。開花情報は、ずんずんと日本列島を北上して行くのだろう。新型コロナウイルスを気にしなくてはいけないので賑やかな花見は差し控えるところが多いようだが、それは仕方ないとして花を愛でるのはひっそりしたかたちでもできる。一人一人、思い思いのやり方で花を愉しみたいものだ。
 2月26日(金)からJR八代駅前の珈琲店ミックが催してくださった特別企画展「前山光則を読む」は、3月16日(火)で無事に終了した。当初の予想をはるかに超えて、たくさんの人たちが来て下さった。芳名録に名を記してくださったのは200名余だが、これは実際の数のごく一部分であろう。自分としては驚きというか、まったく意外なことであった。会期途中の3月7日(日)に行なったトークショーは、コロナ禍に考慮して「3密」を避けるため定員25名に絞ってチケットが発売されたのだが、申し込みが相次いで、結果は40名近くが来場。入れなかった人たちのために、4月23日(金)午後3時からミックでトークショーをやり直すこととなった。そして、これもまた公表されたすぐから申し込みが相次ぎ、定員を超えた。
 来てくれた人たちは、以前からの顔なじみも多かった。ああ、やはり自分のことを見守って下さっているのだなと、しんみり嬉しかった。遠く熊本市内や天草市、水俣市等、わたしのふるさと人吉市からも多かった。
 ご近所さんが何人も顔を見せてくださったのには、恐縮してしまった。実は、照れくさいものだから、隣近所というかいわゆる「向こう三軒両隣り」の方たちには一切内緒にしていたのであった。だが、新聞記事やテレビ報道や、あるいは人伝てに聞いて企画展のことを知ったそうだ。同様に、親戚筋にもやはり小っ恥ずかしいのでまったく知らせなかった。ところが、熊本市にいる6歳上の従姉やら球磨郡山江村の3歳下の従弟やらが家族と共に「光(みっ)ちゃん、来たバイ」と現れてくれた。そうか、所詮は隠しようがなかったわけか、知らせてなくてゴメン、と謝るしかなかった。
 同級生も、近くは人吉市方面から、あるいは芦北町や宇城市、熊本市、遠くは奈良県から、次々に顔を見せてくれた。ほんとに、嬉しいやら、照れくさいやらであった。
 照れくさいといえば、昔の教え子たちもやって来た。教員時代、ものを書くなどということはなるべく生徒たちには分からないようにしていたので、いやはやバレてしまったなあ、と、そんなような気持ちである。
 アッと驚いたのが、幼い頃に川向こうに生まれ育ったK氏が現れた時であった。この人は確かわたしより3歳ほど上である。幼い頃、わたしの一家は人吉市紺屋町に住んでいたが、家のすぐ裏に球磨川支流の一つ山田川が流れている。わたしたちは人吉東小学校に通っていたが、川を挟んで右岸側は駒井田町。あっちは人吉西小学校の校区である。つまり、山田川が校区の境いとなっていたので、互いにライバル意識が強かった。川で遊んでいて対岸に駒井田町の子を見かけたら、わたしたちは、すかさず、

 西校の先生は
 一足す一も知らないで
 黒板叩いて泣いている、ホイホイ

 と相手校を愚弄する歌を唄う。すると、駒井田町側の相手も気づいて、大きな声で、

 東校の先生は
 一足す一も知らないで
 黒板叩いて泣いている

 と、同趣旨の歌で応じる。手短に「西校は金学校/行ってみたらべー(糞)学校」と罵ることもあった。そうするうちに両方ともムラムラとファイトが湧くので、当然、歌が終わると石を投げ合うわけだ。川が間にあって50メートル近い幅で流れているため、なかなか対岸へ届かないのだが、たまには着弾することもあった。夏場には、夜、おもちゃの花火を対岸へ向けて次々に発射させることもしていた。これはさすがにあっちへ届くことはなかった。ちなみにK氏は左目に傷を持っているが、氏によれば「これはな、紺屋町のあんたたちが投げた石が当たったもんだから、な」、だから怪我をしたのだそうであった。だが、「俺はちっとも後悔しておらん。石を投げ合うたのは、あれは実に面白かったからな」と、数年前、人吉市内でバッタリ出くわした際に語ってくださったことがある。そのK氏が、今回は人吉市から奥様連れで来店してくださった。わたしは握手しないではおられなかった。
 兄の初恋の人も来てくださって、これにもたまげた。兄は中学時代に恋い焦がれたが、見事にフラれたのだ。現在、熊本市内に住んで居られるそうだ。
 店の中では、わたしの著書『ていねいに生きて行くんだ〈本のある生活〉』『生きた、臥た、書いた―淵上毛錢の詩と生涯』『若山牧水への旅―ふるさとの鐘』、故・麦島勝氏との共著『昭和の貌〈あの頃〉を語る』、6人の執筆者による共著『球磨焼酎―本格焼酎の源流から』(いずれも弦書房)も販売されたのだが、よく売れた。会期中、かれこれ70冊近く捌けたのであった。中には、全部で何人だったか、若い女性から、わたしの『ていねいに生きて行くんだ〈本のある生活〉』にサインしてくれと申し出があったのにはビックリ。自分の書くものが若い層それも女性の方たちに読まれているなどとは、全くもって意外や意外、実に想定外のことであった。
 だから、今回、何といっても自分にとって驚きだったのは、こうした若い人たちも含めた見知らぬ人たちがずいぶんと多く来場して下さったことだ。自分としてはほとんどそうした事態は予想していなかったのだった。だが、その方たちは、いつの間にかどこかの書店で本を買い求めて、ちゃんと読んで下さっていたことになる。
 それで、改めて考えざるを得ないことは、やはり文章を書いて発表するということはすなわち全く見も知らぬ人たちに読まれる、つまり、不特定多数の目にさらされるのである。そのことは、文章を綴る際には必ず自覚しておかねばならぬことであり、今まで自分でも分かっていたはず。だが、ついつい無自覚というか、これまでうかうかして過ごしてきたのではなかったか。今回は、あらためて自覚を促されたのであり、猛烈に反省するしかなかった。
 こうして、3月16日、無事に珈琲店ミックの特別企画展は終了した。ご来場くださった方々へ、改めて心から感謝申し上げる。そしてまた、出水晃氏を初めとする珈琲店ミックの皆さん、とりわけ笠井光俊・麻衣夫妻にはほんとにお世話になったし、お二人の若い感覚と思考はわたしにとって刺激的で、教えられる点が多かった。心から、ありがとう!
 それにしても、女房が生きてくれていたらなあ。妻・桂子が亡くなって、もう3年近くなる。3月16日には、帰宅後、仏壇に向かって手を合わせ、特別企画展が無事に終わったことを報告した。報告しながら、淋しくてしかたなかった。
 
 
 

▲3月16日、ミックが午後6時で閉店してから、店内を撮影させてもらった。名残り惜しかった。