第398回 山芍薬の花 

前山光則

 近ごろは、郵便で便りを出す人が減っているそうだ。パソコンやスマホの方が便利だから、それはそれで良かろう。だが、わたしなどは著書やおいしい物を贈られたり、色んなことでお世話になった時に、やはりメール等よりも郵便で感謝の意を表したくなる。それも、なるべく絵葉書を使う。文房具店や美術館や旅先の土産品店等で買い溜めしておいて、その都度選んで使うのである。
 それで、何日か前のこと、遠くに住む人から新著が届いたので礼状をしたためようと思った。色々ある中から選んだのが、故・石牟礼道子さんの絵が使われている絵葉書。本を贈ってくれた方は石牟礼ファンであり、ちょうど良いと考えたのだ。昨年夏に熊本市内の橙書店というところで見つけたから、数枚買っておいたのであったが、1枚だけ残っていた。よし、これを使おう、と、改めてその絵葉書を手に取ってみて、初めて気づいたことがあった。
 石牟礼さんの絵は、葉書の裏面の下半分に刷り込まれている。和服姿の女性が、両手で一輪の花を持ち、やや下を向いた姿勢で立っている、その上半身が描かれているのである。背後には海、大小ふたつの島が浮かんでおり、たぶん不知火海であろう。画面の左下に「道子」とのサインがあり、篆刻印が捺されている、と、こういった画面だ。そして、童女が手に持つ一輪の花であるが、かわいく丸いかたちを見ていて、「もしかしてこの花は?」、閃いた。絵葉書をひっくり返して表の方を見てみたら、果たして右下の隅に小さく「石牟礼道子『山芍薬』」とあるではないか。左上の、切手を貼るべき箇所にもその山芍薬一輪が刷り込んである。エーッ、そうだったのか、童女が手にしているのは山芍薬であったか。今まで気づかなかったなあ。
 普通の芍薬でなく、「山芍薬」である。石牟礼さんはこれをいつ頃どうやって入手し、絵に描いたのであったろうか。
 試しに、東京の方で花屋をしている幼なじみに電話して、山芍薬が花市場に出回ることがあるかどうか、聞いてみた。
「普通には、まずあり得ないね」
 彼は、はっきりとそう答えた。一般に出回っている芍薬ならともかくとして、「山芍薬」である。深山に生えており、園芸の上手な人によって丁寧に栽培されたものがあるとしても少なくて、市場に流通するほどには手に入らない。だから、商品として扱うことはまったくないという。
 次に、熊本市在住の渡辺京二氏に電話してみた。よく知られているように、氏は、永年にわたって石牟礼さんの仕事をサポートして来た方である。石牟礼さんの熊本の仕事場にしょっちゅう出入りしておられたから、何か知っておられるのではないかと思ったのだったが、あいにくそこらへんのことは御存じでなかった。
 絵葉書を買った橙書店にも訊ねてみた。そしたら、石牟礼さんの絵が描かれた時の詳しい事情については御存じでなかったが、あの絵葉書はだいぶん以前に詩人・伊藤比呂美さんたちの「熊本文学隊」の活動の一環として作成・発行されたものなのだそうである。店主の田尻久子さんもそのメンバーで、やはり聞いてみてよかったわい、と嬉しかった。
 それから、弦書房刊『石牟礼道子〈句・画〉集 色のない虹』を本棚から引っ張り出してみた。すると、まったく同じ絵柄のものが107ページに載っているではないか! しかも、これには石牟礼さんの俳句も、

 山しゃくやく
 盲しいの
 花の
 あかりにて

 画面の上部に、4行に分けて書かれている。ははあ、山芍薬の花の風情が実に巧みに捉えられている句である。この絵は、「岩岡中正蔵」とある。そこで、熊本市在住の俳人・岩岡中正氏に電話で訊ねてみたのだが、やはり絵の中の山芍薬のことについて詳しいことは御存じでなかった。ただ、新しいことが分かった。それは、つまり、絵葉書も岩岡氏蔵の絵も同じ図柄であるのは、どちらも原画からコピーされたものであるためだ。なるほど、と大いに納得。石牟礼さんは、1枚の絵を描くと、いくつもコピーをとって、色んな人にプレゼントしておられた。わたしも別な図柄の絵をいただいたことがあり、大切に所持している。
 つまり、絵が描かれた時の事情はまったく分からないままである。だが、絵葉書の山芍薬に気づいた時の「エーッ、そうだったのか」との驚きというか、一種の興奮状態は、まだ覚めていない。それというのも、山芍薬は、忘れられない花だからである。熊本県水上村の最奥部、球磨川水源地で、毎年4月頃にこの花を観ることができる。
 わたしが最初にそこを訪れてみたのは、昭和53年(1978)7月2日のことであった。当時、多良木高校水上分校に勤めており、いったい球磨川はどこらあたりから始まるのだろう、との興味・関心に突き動かされて、同僚2人と共に山奥へ入ってみたのだった。そこは、水上越(標高1450)と呼ばれる山の中腹、標高ちょうど1000メートルのところにある。登り口から5時間余をかけて山中をさ迷った末に、原生林の斜面、桂の巨木4本が並んで聳える下のところからドッと多量の水が噴き出る地点へ到達した。あの時の感動は、今も忘れない。
 ただ、その時は夏だったので、山芍薬の花には出会わなかった。以後、折りに触れて水源地へは出かけており、何度目であったか、春先に訪れた時にちょうど山芍薬が咲いていた。うす暗い原生林、下草がびっしり生えている中、あちこちに白い花が見られたのであった。普通の芍薬と比べて、水源地あたりの山芍薬の花は白色でありつつやや透明感がある。それが、原生林のうす闇の底で、一つ一つが、なんだかボーッとしているというか、うすぼんやりと光を帯びたように感ぜられる。見ていて、まるで夢まぼろしの中に踏み込んだ気分なのである。原生林の中に山芍薬の群生する様は、そのように一種不思議な趣きだ。だから、岩岡中正氏蔵の絵に「山しゃくやく/盲(め)しいの/花の/あかりにて」とあるのは、実にまことに山芍薬の幻想的な風情がよく捉えられているわけである。石牟礼さんが絵筆を握っていた時、目の前の花は紛れもなくまぼろしのような光を帯びていたものと考えられる。
 ちなみに、球磨川水源地あたりの原生林は、時が経つにつれて林相がだいぶん変化していった。木々は相変わらず茂っているものの、地面を覆っていた下草は訪れるたびに薄くなってきて、やがてほとんど見られなくなった。それは、野生の鹿たちが増えすぎて、下草を食べてしまうからである。おかげで原生林の中は歩きやすくなったのであったが、雑草が見られぬ状態である。ただ、山芍薬だけは相変わらず生えている。なぜかといえば、山芍薬には毒があり、鹿たちはそれを知っているから決して食べないのだそうだ。だから、毎年、春になればしっかり花が開く。
 昨年、この連載コラム第394回「球磨川最上流部は、今……」でレポートしたように、ここ数年は水害などで山壁や林道が各所で崩れたため、残念ながら球磨川水源地へ登るのは不可能となってしまっている。だが、下草のなくなってしまった原生林の中で山芍薬だけは今でも鹿たちによる食害を被らずに生えており、春にはかならずあの夢まぼろしのような趣きの花を咲かせていると思う。
 そのような、山芍薬がいっぱい生えている球磨川水源地。あそこへは一度で良いから石牟礼さんを御案内したいものだ、と、若い頃、夢想したことがある。しかし、果たせぬままであった。平成20年(2008)3月31日に不慮の事故により亡くなった江口司さんは、石牟礼さんを熊本県山都町の向坂山(むこうざかやま)西麓にあたる緑川の水源地、いわゆる緑仙峡方面へ案内したことがあると思う。あるいは、宮崎県椎葉村の山奥、耳川の源流にも連れて行ったことがあるはず。ああいう九州脊梁山地あたりなら、山芍薬にも出会えるに違いない。だから、もしかしたら彼が現地で石牟礼さんに見せてあげたか、あるいは採取したものを大切に運んでやったか? そのようなことも推測してみるが、今となっては確かめる術はない。
 1月28日には、熊本へ出る用事があったので、橙書店にも立ち寄った。店主の田尻さんは、辛うじて残っていた石牟礼さんの絵葉書を、2枚、出して下さったので買って帰った。これはもう使わずに、大切に保存しようと思う。 
 石牟礼道子さんが亡くなられたのは、平成30年(2018)2月10日であった。もうすぐ命日だなあ。亡くなられてから、早くも4年が経とうとしている。
 
 
 

▲絵葉書 表面 右下に「石牟礼道子『山芍薬』」 と印刷されている。左上、切手を貼るところに山芍薬が一輪。

▲絵葉書 裏面 葉書の下半分に絵が印刷されている。

▲『石牟礼道子〈句・画〉集 色のない虹』所収の山芍薬の絵 見てのとおり、絵葉書と同じ絵。ただ、「山しゃくやく/盲(め)しいの/花の/あかりにて」と句が記されている。