第411回 渡辺京二さん逝去 

前山光則

 明けましておめでとうございます。 
 これを読んでくださる方々は、年末年始をどう過ごされただろうか。わたしは平々凡々として、変わり映えしない毎日であった。
 ただ一つ、まことに悲しいできごとがあった。12月25日の昼過ぎ、知人から電話がかかってきて、
「渡辺京二さんが亡くなられたという情報が伝わってきたが、ホントか?」
 と訊ねるではないか。咄嗟のことで、初め、信じなかった。熊本日日新聞に毎週1回、1ページ全部を使っての連載「小さきものの近代」を続けておられるから、お元気だとばかり思っていたのである。
 ところが、熊本在の親しい友人に電話して確かめたところ、本当のことであった。25日の朝9時頃、娘の梨佐さんが、そろそろ起こして朝御飯を食べさせてやろうと思って渡辺さんの寝室に入ったところ、亡くなっておられるのが初めて分かったのだという。
 愕然としてしてしまった。
 翌26日、熊本の真宗寺で通夜が営まれたので参列したが、あっちこっちから大勢の弔問客が来ていた。おおよそ200名近くはいたのではなかろうか。棺の中の渡辺さんは穏やかな表情で、まるで今もなおゆっくり睡眠中という感じであった。いつものとおり「小さきものの近代」を執筆し、夜になったから寝床に就き、眠っているうちにあの世へと旅立たれたことになる。死因は「老衰」とするしかないようであり、老人施設だとか病院などの世話になることもなく、御自宅で普通に起居して、92歳の生涯を終えられた。大往生のお手本みたいなものだな、と感嘆したのであった。
 その26日は、地元の熊本日日新聞が1面を使って渡辺さんの死を報じた。同紙には著作リストも掲載されていて、それによると一番最初の本が『熊本県人』(新人物往来社)、これは昭和48年(1973年)の刊行だ。モッコスだとかワマカシだとかの熊本県民気質を、冷静に、興味深く解き明かしている本である。最新の本が、昨年弦書房から出た『小さきものの近代 1』だ。明治維新というものが日本人にとって何であったかを読み解く、まことに意欲的な書きものである。そして、単行本だけでなく著作集も加えて数えてみると、なんと、著書の数はかれこれ40点を越えているではないか。わたしもずいぶん愛読してきたが、渡辺さんはたいへん忙しい日々を過ごして来た人。いつの間にこんなにたくさんの著述をなさったのか、と舌を巻いてしまう数である。
 ある新聞社から追悼文を依頼されたので、ご恩返しの気持ちを込めて綴ってみることとなった。それで、思い出してみると、わたしなどが初めて渡辺さんにお会いしたのは昭和48年(1973)の12月22日か23日だった。実を言えば、自分自身では「確か、昭和48年頃」としか覚えていなかったのだ。むしろ、渡辺さんの方が記憶しておられて、「48年の22日か、23日か、どっちかだよ」と、ある時、教えてくださったことがある。これは驚異的な記憶力ではなかろうか。
 その昭和48年は、石牟礼道子・松浦豊敏・渡辺京二責任編集と銘打った季刊雑誌「暗河(くらごう)」が10月に創刊され、わたしなども知人を通じて暗河の会に加えてもらうこととなり、それで集まりの場所「カリガリ」に行ってお会いしたのだった。渡辺さんはいかにも頭が良さそうで、神経がピリピリしており、実に「気鋭のもの書き」という印象だった。店主の松浦豊敏さんは俳優の高倉健みたいな、渡辺さんとはまた違った雰囲気の人だった。カリガリには怖い人ばかりが集っていたが、この2人にはまた格別の貫禄といおうか、オーラがあったのだった。
 おつきあいするうちに少しずつ分かってきたことだが、渡辺さんは水俣病闘争に主体的に関わった行動力抜群の人であり、またじっくり腰を据えて執筆に励むもの書きでもあった。さらに、編集者として人の才能を見いだし、伸ばすことに長(た)けていた。なによりまず、昭和40年(1965)11月に雑誌「熊本風土記」を創刊された際に『苦海浄土』という希有の作品と出会って以来、ずっと石牟礼道子さんの仕事に寄り添い、支えて来られたことが、渡辺さんの編集者としての面目を十二分に証明してくれている。「暗河」のメンバーにも色々と小説や評論や研究レポートなどを書くことを勧めていたし、わたしにも、じゃんじゃん小説を書け、と、しょっちゅう叱咤激励してくださった。「暗河」廃刊後も、渡辺さんは「道標」や「アルテリ」で若い人たちと深く積極的に関わって来られた。こうしたところにも、いつまでもしなやかな感性と思考のもとに新しい才能を発見していくという、編集者としての天分が大いに発揮されているのではなかろうか。
 今、懐かしく思い出すのは、昭和50年(1975)から54年まで熊本県球磨郡水上村で多良木高校水上分校に勤めていた、あの頃のこと。その頃、石牟礼道子さんと渡辺京二さんが遊びに来てくださった。それは1回限りでなく、数回にわたることであったが、ある時、女房とわたしはお2人を車に乗せて村内をあちこち案内した。その折り、熊本県から宮崎県へと抜ける山中へも入って行き、県境の不土野峠(標高1069メートル)を越えようとする頃であった。渡辺さんが、ふと、
「前山さん、ここらは、どこかに、コーヒーを飲ませる店でもないものかねえ」
 とおっしゃるではないか。わたしは思わず目ん玉丸くして、
「エッ、な、何ば言いなっですか、渡辺さん。こぎゃん山奥に、そぎゃん店が、あ、あるもんですか」
 わたしが口を尖らせて言ったら、渡辺さんは、笑い声を上げて、まるで悪戯が見つかってしまった少年のような顔になった。若いわたしは渡辺さんの発言に呆れかえったのだったが、今となってはどうもそのような若造の反応を愉しんでおられたのではなかったろうかと思う。あの時の渡辺さんの、いかにも愉快でならん、とでも言いたげな表情が忘れられない。
 最後にお会いしたのは、昨年6月であった。近年は、とりわけ「小さきものの近代」の連載が始まってからは執筆時間を邪魔してしまうのは心苦しいから、御自宅へ遊びに行くのは極力遠慮していた。だが、京都で長年喫茶店を営みながら熱心な渡辺京二ファンであるという人がやって来たから、御自宅へ案内し、1時間半ほどお話を伺ったのだった。渡辺さんは、初め、はっきり言ってやや口調に頼りなさがあった。しかし、喋るにつれてエンジンがかかってきて、後はもうお若い時とちっとも変わらない歯切れ良い語り方となった。最後には、
「あなた、小説を書かないとダメじゃないですか」
 ピシッと厳しく意見してくださった。
 最初に記したことをくり返すが、お棺の中の渡辺さんはほんとにまだスヤスヤと眠っていらっしゃるような、安らかな顔つきだった。亡くなられたことは悲しくてならないが、そのことだけは、心慰むものがある――御遺体と対面して、そのような思いも湧いたのだった。渡辺さん、長い間ご苦労様でした。そして、あれやこれやとお世話になりまして、心から感謝しております。どうぞゆっくりお休みください。

▲これから初日の出! 元朝、7時25、6分頃だったろうか。近くの川土手にいて写した。初日が顔を現そうとする、これはほんの一瞬前の写真である。