第451回 ひらがなばかりの歌に思う

前山光則

 こないだ新年を祝ったのであったが、うかうかしている内に早や1月も終わろうとしている。まったく、時間の過ぎ去るのはアッという間である。
大相撲初場所は、豊昇龍・王鵬・金峰山の3人が3敗で並び、巴戦にもつれ込んだ。結局、豊昇龍が2度目の優勝を勝ち取ったが、15日間実に盛り上がりを見せてくれたわけで、面白かった。ただ、横綱照ノ富士が引退した。この人は苦労人で、怪我に悩まされて一度は大関から序二段にまで落ちてしまったが、そこから這い上がったのである。ちょっとなかなか普通には真似できない、たいへんに強靱な精神力の持ち主ではないだろうか。だから好きな力士の一人であったのだが、ついに引退。相撲ファンの一人として寂しくてならぬ。ただ、体がもう限界に来ていたのであろうから、今まで本当にご苦労さん。これからは良き指導者として後進を鍛えてやってほしい。
           × ×
 さて、本題に入ろう。
 5年ほど前から、八代地方の有志たちで発行されている短歌季刊誌『しらぬ火』に「いい歌みつけた」と題する連載をさせてもらっている。昨年の冬号で第19回目だった。中身をひと言でいえば、名歌鑑賞である。つまり、明治以後の近現代短歌の中から自分が感銘を受けた作品を引用し、解説や感想をエッセイ風に綴るという趣向。四百字詰め原稿用紙で3枚半ほどの分量だ。
 実は、八代市のラジオ局エフエムやつしろが発行する季刊タウン誌「かじゅめる」には、同趣向の連載「いい句見つけた」をすでに17年前から続けており、去年冬の号で第66回目であった。これは自分の心の中に残る印象的な俳句作品を、やはり明治以降の作品から抽出して書いているのである。
 だから、言うなれば短歌誌での「いい歌見つけた」は、「いい句見つけた」の姉妹編みたいなものである。どちらも、至って気楽に続けさせてもらっている。
 「いい歌見つけた」には、今まで次のような作品を扱ってきた。

 第1回 瓶(かめ)にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり
                                    正岡子規

 第2回 葛(くず)の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり  
                                    釈 迢空
 第3回 拒むもの多き日にち雪ふれば緋の外套のなかにやせゆく      安永蕗子
 第4回 いたく錆びしピストル出でぬ/砂山の/砂を指もて掘りてありしに  石川啄木
 第5回 火の国の火の山に来て見わたせばわが古里は花模様かな       高群逸枝
 第6回 マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや    寺山修司
 第7回 おとなりの寅おぢやんに物申す長く長く生きてお酒飲みませうよ   若山牧水
 第8回 催涙ガス避けんと秘かに持ち来たるレモンが胸で不意に匂えり    道浦母都子
 第9回 ようやくに帰りきにけり/故里の吾が奥つ城(おくつき)も/はやそこにあり 
                                   小山勝清
 第10回 二日酔いの無念極まるぼくのためもっと電車よ まじめに走れ   福島泰樹
 第11回 さはいへと君そこひしき一人してあたら若鮎くまの濃き酒      田山花袋
 第12回 肥(ひ)のくにの球磨焼酎のよろしさはひとたび飲みてつひに忘れず  
                                     吉野秀雄
 第13回 雪の辻ふけてぼうぼうともりくる老婆とわれといれかはるなり   石牟礼道子
 第14回 橋げたに夜ごと襁褓(むつき)を干しあへる夫婦こよひは争ふらしき
                                   石牟礼道子
 第15回 土ひびき土ひびきして吹雪する寂しき国ぞわが生(うま)れぐに   宮 柊二
 第16回 つく毬のまるてに来(きた)り春の夜の月夜よろしと歌かき残す   宗 不旱
 第17回 故郷に君を宣(うべな)ふ人なくて旅に叫びし君がうたぐさ     志賀狂太
 第18回 立かへり 又みゝ川の みなかみに いほりせん日は 夢ならでいつ   柳田國男
 第19回 「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日    俵 万智

 そして、である。そろそろ「いい歌みつけた」の連載にも会津八一(あいづ・やいち)の作品を取り上げてみたいもんだ、と考えている。はるかな昔から現在まで、歌詠みはたくさん存在してきたが、この人のように自身の独創を貫き通した歌人は、ちょっと他には見当たらないのではないだろうか。わたしはそう思う。
 八一は、明治14年(1881)8月1日、新潟県新潟市生まれである。作品はおおむね本名で発表したが、「秋艸道人(しゅうそうどうじん)」との号を用いる時もあったようだ。長らく東京に住んだが、晩年は故郷に帰り、昭和31年(1956)11月21日、逝去。享年、75であった。さて、その会津八一の短歌であるが、

 かすがの に おしてる つき の ほが らかに あき の ゆふべ と なり に ける かも
 
 つの かる と しか おふ ひと は   おほてら の むね ふき やぶる か ぜ に かも にる  

 かすがの の みくさ をり しき ふす  しか の つの さへ さやに てる  つくよ かも 

 あたらしき まち の ちまた の のき  の は に かがよふ はる を いつ
 とか またむ

うらやま に くも ゆき かよふ ひろ には の こけ の おもて に いりひ さしたり 

 この人の歌集『自註鹿鳴集』から、5首だけ挙げてみた。どうであろうか。
 日本近代文学館・編『日本近代文学大事典』中の会津八一の解説を見ると、八一の作風について、斎藤茂吉は、
「道人の歌は、万葉調なるを以て特色とするが、ただ古調のこつこつしたもの、乾燥し果てたものとは趣を異にして、その声調流動し、新鮮な果物の汁のごときものを感ぜしめる」
と評しているそうである。
 しかし、である。普通の短歌集を読み慣れた眼には、会津八一の歌はずいぶん風変わりなものと映ってしまうのではないだろうか。
 そう、この独特の詠法というか、記し方。はるかな昔から現代に至るまで、このようにユニークな書き表し方をした歌人がいたであろうか。しかしながら、漢字とかなとが混じりあい、しかも余白なしで語が並ぶ普通の短歌では絶対に醸し出せぬ空気というか、気配。そういうものがこの人の作品には漂うのであり、ひどく独創的な方法だと言える。会津八一以外には、このような作歌法を用いた例はないであろう。
 強いて揚げるなら、石川啄木などは自作を行分けしたり、かなり意識的にひらがな表記を多く用いていたりする。だが、それでも会津八一のようには徹底していなかった。
 八一の作品の中で一等世に知られているのは、三首目の、

 かすがの の みくさ をり しき ふす しか の つの さへ さやに てる つ くよ かも

 これである。さて、これを、漢字を交えつつ書いてみればどうなるかと言えば、
 
 春日野の御草折り敷き伏す鹿の角さへさやに照る月夜かも
 
 こうなるであろう。ひらがなだけで書かれ、余白をいくつも設けた「かすがの の……」の方には、なんとも言えぬ静謐な空気が生じていた。しんと静まりかえり、しかしながら鹿の角に月光が冴えざえと当たっている気配があった。しかしながら、これを漢字交じりで書き下してしまうと、ご覧のとおり作品の趣がまるで違ってくるのではないだろうか。
 せっかくのついでだから、他の作品にもあえて漢字をあてがってみようか。

 春日野に押し照る月の朗らかに秋の夕べとなりにけるかも
 角刈ると鹿追ふ人は大寺の棟吹き破る風にかも似る
 新しき町の巷の軒の端に輝よふ春を何時とか待たむ
 裏山に雲行き通う広庭の苔の表に入り日射したり

 ほら、もう、一目瞭然としているであろう。 つまり、こうやって眺め直してみると、作品の湛える雰囲気や気配は互いに歴然と違ってしまうことがはっきりする。自作をあえてひらがなだけで表記し、しかも単語と単語の間にいちいち余白を設けて一首を成立させる、という方法。まさに会津八一の独創である。斎藤茂吉をして「万葉調なるを以て特色とする」と言わしめた会津八一、やはりこの人の歌はまさしく独創、他の歌人たちのまったく追随できぬ境地を作り上げていたのだな、と思う。
 いや、ほんと、今、あらためて八一の歌には感動を新たにしているところである。 

2025・1・27