第453回 久しぶりの『北越雪譜』

 久しぶりに鈴木牧之(ぼくし)の『北越雪譜(ほくえつせっぷ)』を本棚から引っ張り出し、開いてみた。
 時は、今、3月。わたしが住む九州の不知火海辺、わが家の庭の紅梅はすでに2月上旬に早やばやと花が咲きはじめ、3月になった今もまだ目を楽しませてくれている。下旬になれば、今度はあちこちで桜が咲くのではないだろうか。もう充分に春なのだ。
 さて、では、北国の人たちは今もだいぶん雪に悩まされているようだが、どのようにして春を迎えるのかなあ、と、ふと思った。そうなると、若い頃から折りに触れては親しんできた『北越雪譜』を読み返したくなったのだった。
 鈴木牧之が住んでいたのは越後魚沼(うおぬま)郡塩沢、つまり現在の新潟県南魚沼市塩沢である。明和7年(1770)1月27日に生まれて、天保13年(1842)5月15日に逝去。一生の間、塩沢の地を離れなかった人だ。家は、代々、縮(ちぢみ)織りの仲買業を営み、質屋も兼ねた。牧之は実直に家業に従事したが、一方で若い頃から郷土の生活や風物を丹念に記録することも怠らなかったのである。その成果の一つが『北越雪譜』だ。
 ちなみに、『北越雪譜』初編が世に出たのは天保8年(1837)秋である。すなわち、牧之は、亡くなる5年前になってようやく江戸文溪堂からこの労作を上梓(じょうし)することができた。山東京伝の弟・京山が版元との間を取り持ってくれたのだった。
 さて、それで、牧之の暮らした越後魚沼の春はどんなふうであったか。
 「巻之四」すなわちこの本の最後の方で、「三四月の雪」と題した上で、自分たちの住む魚沼は、冬の間は言うまでもないことだが、さらに春が来ても2月頃までは雨が降ることがない、と言っている。なぜならば、「雪の降るゆゑなるべし」、そう、雪国は、冬、雪が降りつづける。だから、雨というものを見る余地はないわけだ。ちなみに、この場合の「2月」は現在の新暦でいえば3月である。そして、「春の半(なかば)」になると「小雨ふる日あり」と言っている。この時季になれば、晴れた日にはいうまでもないこと、雨の日にも晴れた日にも、「去年より積雪(つもりたるゆき)」が次第次第に消えるのだそうである。
 しかしながら、家屋敷の「乾(いぬゐ)」すなわち北東の間にあたる側は、雪の消えるのが遅い。そして、山々の方に積もった雪は、「里地(さとち)よりもきゆる事おそけれども春陽(しゆんやう)の天然(てんねん)につれて雪解(ゆきげ)に水増(まし)て川々に水難(すゐなん)の患(うれひ)ある事年々なり」、つまり、山々に降り積もっていた雪は人里よりも溶けて消えるのが遅い。だが、春になっていよいよ雪が溶けてくると、川が増水してしまい、あちこちの川で水難が毎年相次ぐ、というのである。春先に水害が生じるのだから、大変だ。
 そして、人々は、春も終わり頃になれば、自然に雪が溶けるのを待たずに雪を籠に入れて捨てたり、あるいは凝り固まった雪をノコギリで挽き割って捨てる場合もあるという。または、日の当たる場所へ、まるで材木を置くかのようにして積み重ねる場合もある。このようにすれば、「きゆることはやきゆゑなり」、お日様が雪を早く溶かしてくれるからである、と牧之は記す。雪が少ない場合は、土を載せたり、あるいは灰をかければ早く解けるそうだ。

「そもく去年冬のはじめより雪のふらざる日も空曇(そらくも)りて、快(こゝろよ)く晴(はれ)たるそらを見るは稀(まれ)にて、雪に家居(いへゐ)を降埋(ふりうづ)められ、手もとさへいとくらし。是に生(うま)れ是に慣(なれ)て年々の事なれども、雪にこもりをるはおのづから曚然(まうぜん)として心たのしからず」

 つまり、冬の初め頃に雪が降るようになり、晴れた空などは稀にしか見られない。家が雪に埋もれてしまい、手もとさえ暗い。そうした暮らしには慣れており、年々のことなのだけれど、雪の中で日々を過ごすのは「曚然(まうぜん)として心たのしからず」と牧之は記している。雪による辛苦を経験し続けた人ならではの、いかにも実感溢れる言であろう。
 だが、また、そうであるだけに春が来た時の歓びは格別だ。「しかるに春の半(なかば)にいたり雪囲(ゆきかこひ)を取除(とりのく)れば、日光明々としてはじめて人間世界(にんげんせかい)へいでたるこゝちぞせらる」と記しており、執筆の筆を動かしながら、鈴木牧之の心は実に伸びやかに弾んでいたのではないだろうか。なにしろ、「日光明々としてはじめて人間世界へいでたるこゝち」と綴っており、いかにも心底から嬉しそうな筆致なのである。
 『北越雪譜』は若い頃から折りに触れては愛読してきたが、やはり良いなあ、雪深い北国の生活を知るには格好の書だ、と、改めて新鮮な気持ちだ。
 この名著については、かつてこのコラム第87回「熊が人を助ける話」でも触れたことがある。鈴木牧之ゆかりの南魚沼市塩沢には、平成21年(2009)9月、女房と一緒に東京方面へ旅行したついでに新潟県へも足を伸ばしたから、現地へ行ってみたのだった。9月1日に、作家であり、牧之研究の第一人者でもある高橋実氏に長岡市で会うことができ、名酒「久保田」を酌み交わしながら色んな詳しい話を聞くことができた。そして、翌9月2日には南魚沼市塩沢を実際に訪れてみたのだが、海からは遠く離れたところであり、山と山とに囲まれて、群馬県と隣接する盆地の町であった。なんだか我がふるさと人吉盆地みたいなところであるなあ、と、妙に懐かしいような気分であった。
 ちょうど昼頃に着いたのだが、肌寒いくらいに涼しかったことを覚えている。ラーメン屋に入ってツルツルと麺を啜っているうちに程よく体が温もってきた。昼食を済ませてから、町を歩いてみた。通りの両側には雁木(がんぎ)が設けてあり、これが南国九州とここら北国との風景のまったく違う点である。雁木は、冬、雪が降り積む際に道が塞がってしまわぬように軒先から突き出してある庇(ひさし)なのだ。
 鈴木牧之の家があったあたりは街の中心部に位置し、現在は酒と釣り具を売る店となっている。牧之が眠る長恩寺という浄土宗の寺院はわりと近くにあり、お墓に詣ることができた。ちなみに、牧之の戒名は「性温居士」である。
 その長恩寺境内には、

 川音の日に日に遠き茂りかな

 と記された牧之句碑が建ててある。句碑といえば、塩沢には牧之記念館があるから見学したが、そこにも、

 そつと置くものに音あり夜の雪

 と刻まれた牧之句碑が建てられている。なかなかの詠みっぷりではないだろうか。鈴木牧之という縮仲買業者は、さすが田舎の商人というだけでなかった。『北越雪譜』というたいへん優れた雪国生活誌を一生かけて完成させた秀逸な文筆家だし、歴史家であった。そしてまた実に味のある句をものにする俳人であったのだなあ、と、改めて感心させられた。実際、『周月庵発句集』『秋月庵発句集』等の句集が遺されている。ちなみに「牧之」というのはこの人の俳号であり、本名は「義三治」。そして、『東遊紀行』『北海雪見行脚集』『秋山記行』等の紀行文や『小説広大寺踊』『塩冶判官(えんやはんがん)一代記』といった戯作も書き残している。さらには鈴木家の記録『夜職草(よなべぐさ)』『永世記録帖』もある、といったふうであり、やはり牧之はただの商人ではなく、たいへんな文筆家でもあったのだ。
 なんだか、こうやって鈴木牧之の『北越雪譜』を読み返すうちに胸がワクワクしてきてしかたがない。いや、ほんと、そうなのである。じっとして家にいるのがもどかしくてならない。
 平成21年9月は現地へ訪れてみて本当に良かった、と、今更ながら思う。新潟県南魚沼市塩沢、わが故郷・人吉盆地と同じような地形のあの町、妙に親近感を覚えた。そして、あの旅行ではさらに佐渡島の方までも足を伸ばしてみたのだったが、できることならもう一度訪れてみたいものだ。新潟県方面の山や川や町なかは、今、どのような風景であろうか。今度の冬は例年よりも積雪がひどかったようだが、今もまだ雪がいっぱい町や村を覆っているのだろうか。あるいは、少しは雪解けの現象も見られるのか。
 とはいえ、あの頃から年数が経ってしまった。現在のわたしは、はるばると遠距離の旅をするには、正直なところ体力に自信がなくなって来ている。だが、そのように自覚しながらも、今、落ち着かなくて、『北越雪譜』をやたらパラパラと捲りつづけている。
2024・3・5