前山 光則
石牟礼道子氏の昭和36年発表のエッセイ「ゆのつるの記」を読み返してみた。
水俣市の山間部、湯治場として知られた湯の鶴温泉での話だ。朝、石牟礼氏が谷川の半分を仕切って板囲いしてある共同浴場へ浸かりに行ったら、「まつぼり」(へそくり)が貯まったので念願の湯治に来たという老婆がいた。16歳で嫁に行き、汗水垂らして働いたし、子も産んだ。だが5人目の子を流産させてから「下りもんがするごとなり申してな」、だから湯の鶴に湯治に行くなら良かろうと「まつぼり」をし始めたものの、なかなか貯まらず、温泉へ出かける望みを立ててから30年、ようやく来ることができた、と老婆は身の上を語り、「ほんに、嫁女に来てからなあ、このゆのつるの湯にくることが、あたいのたった一つの望み事でござんした」、満足げである。石牟礼氏は、「ゆのつるの湯は、命の終りぎわにみた極楽物語として、山ひだの奥深く、次の世代の貧農の嫁女たちに語りつがれることだろう」と書いている。
実は、6月13日、友人夫妻とわたしたち夫婦の4人で湯の鶴温泉へ出かけたのであった。湯の鶴は、かつては賑わっていたが、今はさびれてしまい、旅館だったろうと思われる朽ちた建物や営業しなくなって久しい店舗、廃屋等が多い。ただ、谷川の右岸に新しいしゃれた木造2階建てのレストランがあり、覗いてみたら客でいっぱいで、わたしの住む八代からも知り合いが多数来ていた。ここは地域でとれた食材をつかって味もよく、最近評判になっているようである。そして、わたしたちはそのレストランの対岸の旅館に泊まった。ここも木造2階建てで、かつて湯治宿だったが、リニューアルしたのだという。旅館全体に手入れが行き届いており、部屋のちょっとした調度品もセンスがいい。天然掛け流しの風呂場が5つもあって、それぞれが川に面していたり露天だったり、湯槽が陶製だったりして愉しめる。料理がまた味がよくて、夕食も昼食も4人とも完食だった。
土地の人の話では、平成の世になってあちこちに新しいタイプの温泉センターができてから、とたんに人の来るのが減ったのだという。確かに、昔はわざわざ「まつぼり」までして湯治に来ていたが、今は近くの温泉へ、といっても掛け流しでなく循環式のカルキ臭プンプンの湯だけれども、気軽に行けるわけだ。でも、湯の鶴は、豊富な湯が湧き止まぬ限り、努力やくふうを続ける限り、温泉場としての伝統は途切れないのではなかろうか。
ともあれ、石牟礼氏のエッセイは何度読んでも胸を打つ。日本が高度経済成長を果たす以前、湯の鶴温泉に来る庶民の心情は「あたいのたった一つの望み事でござんした」と、こんなに切ないものだったのだ。いや、かつて日本のあちこちの湯治場でこのような人が来ていたろう。忘れたくないものである。