第一回 小さな石碑

浦辺登

「人言うは水に流し、人聞くは石に刻む」
 親鸞聖人が語った言葉で、人は自身が口にしたことは水に流すように忘れてしまう。しかし、人は他人から聞いたことは石に刻むがごとく覚えている。
 何気なく目にとまった石碑、目的をもって訪ねた墓石に刻まれた事々は、現代に生きる人に何を語りかけているのか。名前や事件などが刻まれた石から、そこに込められた事々を説くことで、何か歴史の真実が見えてくる気がしてならない。
 
 
 
『南洲遺訓に殉じた人びと』1

「えっ、こんな所に、こんなのありましたかねぇ・・・」
 まず、十人中十人が、「西郷南洲翁隠家乃跡」碑を目にして驚きの声をあげる。
 原色の看板に飲食店が立ち並ぶ旧称「親不孝通り」から西に十メートル、正確にいえば、福岡市中央区舞鶴一丁目一の二十七。「兼平鮮魚店」という居酒屋の入り口左手に、ちんまりと、その石碑はある。
 ちなみに、親不孝通りとは、通りの先に大学受験の予備校があり、日々、ここを浪人生(親不孝)が通り過ぎることからつけられた。現在は、東京の大手の予備校に奪われ、代わりに、夜になるとヨッパライが出現するエリアとなっている。
「西郷南洲翁隠家乃跡」碑の西郷南洲とは、言わずと知れた西郷隆盛のことだが、あの西郷さんがここに隠れていたとは、誰もが驚く。西郷隆盛は尊称として南洲とも呼ばれるが、どちらかというと親しみを込めて「西郷さん」と呼ばれる。巨星に等しい偉人でありながら、なぜか、親しげに「さん」づけで呼ばれる。三島由紀夫の小文に『銅像との対話』があるが、そこでも西郷隆盛が「西郷さん」と呼ばれることに、特別な敬愛の感情を向けている。
 その西郷さんは巨体で知られる。巨体であったとは誰もが認識するが、果たしてその西郷さんがどれほどの巨体であったのか。西郷家の口伝によれば、身長は五尺九寸(一七八センチ)、体重は二十九貫(一〇八キロ)、先代の横綱若乃花とほぼ同じ。軍服の下に着るシャツのカラーは十九インチ(四八センチ)というから、なるほど見事な巨体である。日本国内では西郷さんに合うシャツは無いので、友人知人が海外に出かける際にシャツを買ってきてくれと頼んだそうだ。
 そんな巨体の西郷さんが隠れた場所というが、どのようにして身を隠したのだろうか。そして、何が原因で西郷さんは逃避行しなければならなかったのか。残念ながら、詳しく述べる看板があれば良いが、この石碑が一本きりである。
 これについては、点と点を線で結んで、面にしていけば理由が分かってくるのではないかと考えている。
 
 
 
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▲西郷南洲隠れ家跡