第十四回 「加藤司書公に学ぶ」会を節信院で開く

浦辺登
 
『南洲遺訓に殉じた人びと』14
 
 銅像の代わりに大きな石玉がある加藤司書公の台座だが、銅像を再建しようとの動きが出てきた。そのキックオフとしての講演会が三月二十五日(平成二十九年)の午後、節信院(福岡市博多区御供所町)で開かれた。
 加藤司書公の菩提寺である節信院本堂に六十名余の参加者が集まった。冒頭、会を主宰する能楽師の吉住講さんの挨拶、狂言小謡「田村」奉納で幕を開ける。続く「加藤司書公と筑前勤王(皇)党」と題して、私が話をした。
 加藤司書公は福岡藩の家老として強力なリーダー・シップを発揮し、犬猿の仲であった薩摩藩、長州藩との和解、同盟関係構築に務めた。幕末史において、なぜか、忘れ去られ、小説世界が史実として独り歩きしている現実に慨嘆する。
 この加藤司書公は文政十三(一八三〇)年三月五日生まれ。西暦にすると一八三〇年三月二十八日生まれ「牡羊座」。「牡羊座」生まれの性格は活動的、明晰、猪突猛進、リーダー・タイプ。まさに、加藤司書公の性格そのままだった。幕末史において無名の人物を西洋星座の性格占いで紹介したことで、参集した女性陣から笑いが起きる。しかし、これがインパクトとなり「牡羊座の加藤司書公」としてインプットされたのだった。
 次に、性格を表すエピソードを紹介するが、これも「牡羊座」の性格とリンクする。さらに、大食いの司書公を紹介する。合鴨三羽、三畝のニラ、雑煮四十杯を食べた逸話。酒を五合、八合、一升とたて続けに飲み干したなど、驚くべき胃袋の持ち主。しかし、これは、政治家としての資質を十二分に持っていた証拠。政治家は、いつでも、どこでも、少しの時間でも寝ることができなければならない。同時に、真夜中でもフルコースの食事を押し込む鉄の胃袋の持ち主でなければ、とうてい難局は乗り越えられない。存命であれば、一国の大臣になれるだけの資質を具えた加藤司書公だった。
この時、ビハリ・ボース直伝の「ハルさんカレー」ならば、司書公は何皿食べることができたのだろうかと、頭をよぎった。
 会の締めにwakoさんの「加藤司書公に捧げることのは」で終了した。犬鳴川、遠賀川という地名が織り込まれた言葉のパフォーマンスに、来場者は惜しみない称賛を贈ったのだった。
 
 
 
加藤司書公墓所石碑(節信院)

▲加藤司書公墓所石碑(節信院)