前山 光則
4月中旬は、弦書房から刊行されたばかりの『熊本地震2016の記憶』を読んだり日記を取り出して記憶を確かめたりしながら、地震のことを思い返して過ごした。
去年の4月14日、午後9時25、6分頃だった。2階で寝に就いたばかりだったが、激しく揺すられて飛び起きた。以後、眠れず、八代は震度5であるとか、それより熊本市や益城町方面が震度7で、大変なことになっている等々との情報がテレビやラジオで徐々に確認できて、空恐ろしくなった。あっちこっちから「大丈夫か」「無事ですか」云々との電話やメールが相次いで、これには実にありがたい思いであった。こうした見舞いや激励は以後も数日間つづいて、今でも感謝この上ない気持ちだ。翌々日にも午前1時25分頃に激震が来て、八代はやはり震度5、ヘリコプターがひとしきり夜空をブンブン旋回し、それを聴いているだけでも不安であった。熊本は震度7、これが後で「本震」と発表があって、なんということだと驚いた。
次いで、19日の午後6時ちょっと前、知り合いから電話がかかってきていて盛んにお喋りしている最中にガタガタガタッと来て、あまりの激しさに立っていられなくなった。本棚からバラバラと本が落ちて、肝を潰した。あとで知ったが、震度5強で、しかも自分たちの住んでいる直下が震源だった。だから、自分にとって熊本地震で最も怖かったのは14日の「前震」でも16日の「本震」でもないし、ましてその後永らくつづいた余震でもなかった。この19日夕方の激震が突出して恐怖をもたらした。気を取り直して外へ出てみたら、前の家の子が道路上でベソかいていた。「男だろ、泣くな!」と言ってやったが、自分でも実はビビッていた。家の者や近所の人と一緒に近くの小学校体育館に避難して、宿泊。体育館に寝る人やグラウンドで車中泊する人など、合わせて400人余が来ていた。次の日は、まだ暗いうちに車を飛ばして福岡の娘のところへ向かった。そして、数日間様子を見てからまた家へ戻ったのであった。
冬に入る頃までは気が気でなかった。震度3とか4の余震に脅かされるので、寝るときも普段着のまま。ポケットに財布や免許証や家の鍵などを突っこんだまま、つまり何事かあればすぐに飛び起きて行動を開始できるように備えておく、という生活が続いた。熊本市や阿蘇方面へ出かけることがたまにあったが、あちらの方は被害が甚大だ。とりわけ益城町や西原村の中心部を通過する際には、あまりに毀れ方がひどくてカメラを向けるのがためらわれ、胸が痛んでしかたがなかった。
天災はいつやって来るか分からない。というか、いつでもやって来るのだと思い知った。わが家は本が落ちたり壁に少々のヒビが入ったりした程度で済んだが、しかし所詮天災の前には人間世界なんて脆弱なものなのだなあ、と身にしみた。これからも毎年4月が来ると地震の記憶が生々しくぶり返すだろう。