前山 光則
今、あれやこれや思案している。
実は、11月初旬にある大きな病院へ出向いて講演をしなくてはならぬわけである。病院内には医師やら看護師やら医療スタッフがたくさんいらっしゃるのだが、もっと患者の気持ちへの理解を深める必要がある、との趣旨で研修会が行われるのだそうである。わたしに与えられたテーマは、「癌と向き合う」。春の終わり頃に打診があった時、ああ11月か、まだまだ先のことだな、という安易な気分で請け合ってしまった。期日が段々近づいてきて、はて、困ったな。苦しんでいる。
わたしの病歴をいえば、まず平成3年6月、44歳の時に甲状腺癌の手術を受けて、甲状腺を4分の3切除してもらっている。当初は切られずに残った分の甲状腺が頑張ってホルモンを出し続けてくれていたが、やがて能力が衰えてきて、現在はホルモン剤を毎日服用して不足分を補っている。2度目が大病で、平成17年、58歳の時であった。下咽頭癌ができていてリンパ腺に転移しており、腫瘍は計3個。8月~11月まで病院にお世話になったのだが、その間強い効き目の抗癌剤点滴が約1ヶ月、放射線照射は35回行われて転移の分の腫瘍2個は潰れた。最後、下咽頭の腫瘍を切り取ってもらう手術をしてもらった。あと、平成19年2月、平成26年5月、今年の2月というふうに計3回、食道癌ができている。いずれもごく初期、食道粘膜に発生したばかりの出来たてのホヤホヤの腫瘍だったので内視鏡で取り除いてもらっている。つまり、合計5回の癌を経験してきたが、死を覚悟するほどに深刻だったのは2回目だけである。あとは、初期の段階で腫瘍が発見できたので、たいしたことなくて済んでいる。
癌ができていると知らされた時の気持ちを言えば、1回目が最もショックであった。怖くて、情けないくらい泣いた。2回目の下咽頭癌+リンパ腺転移の時は、ああもう生き延びることは無理かなあ、と天を仰いだが、涙すら出なかった。どうせ生き延びられないのならば自分にも考えがあるゾ、と、入院前、ポン友たちと連れ立って沖縄の八重山諸島に四泊五日の旅をした。海で泳ぎ、島唄に聴き惚れ、泡盛を連日あおって南島気分を満喫した。そして、帰ってきてすぐに俎の上の鯉みたいに観念して病院へ入ったのであった。
最初と2回目とで共通して言えるのは、癌の告知をされてから視覚・聴覚が異常に研ぎ澄まされるのを自覚した。近眼であるにもかかわらず眼前のあらゆるものが印象深くはっきりと見えてしまうし、あまり耳が良くないはずなのにどんな小さな物音でも聴こえてしまう。目がクラクラし、耳が痛くなるくらいな状態であった。今から思うと、この世にものすごく懐かしさを覚え、一つ一つ見たかったし、何でもかんでも今の内に聴いておきたかった。これが、その後の3度の食道癌になると、医師から検査結果が知らされても心が騒がない。平常心で医師の説明を聞くだけである。こんなに連続して食堂に癌が発生するのであれば、今後もそれは繰り返すはず。でも、心が不安におののかなくなっており、なんだか癌という病気に対してスレッカラシになってしまっているのである。
それで、知り合いが重病で入院・手術となった場合、うまくアドバイスする能力がない。あれやこれや闘病の経験をダベった後、わたしがいつも結論めいて言うのは、「病院食は、まずかろうと何だろうと完食すべきですよ」、このバカみたいに単純な意見である。今まで、入院していて食事を食べ残したことがない。抗癌剤点滴の際には、副作用で吐き気に悩まされた。でも、無理に食べ物を飲み込んでみたら、なんと、戻さずに済んだ! だから、自信がついて、食欲がなくても食べ続けた。あるいは、放射線照射で喉が火傷状態になってしまった時は、しびれ薬を塗ってからでないと食べ物が入ってゆかない状態に陥った。しかし、意地で食べ物を口に入れ、涙と共に飲み込み続けた。たまには、ご飯が少量すぎるから賄いのおばさんに「あのー、大盛りにしてくれんですか」とねだったし、人目を盗んで病室を抜け出し、付近の食堂へラーメンやチャンポン等を食べに行った。ああ、まことに浅ましい癌患者であった。
ここで少しだけ言い訳をさせてもらえば、栄養剤点滴の効果などというものをわたしはまったく信用していない。本物の食事が一番の栄養剤と心得ており、だから、これから癌と闘おうとするウブな人たちに対して「病院食は完食すべき」と、バカの一つ覚えみたいにして単純なアドバイスしかできないのである。食べ物が摂取できない状態になった人たちにとって、まことに何の頼りにもならない「経験者」である。
そう、気の利いた闘病生活をしていないわたし。医療スタッフの方たちから、さぞかしバカにされるだろうなあ。