第395回 遍歴の国に肥後あり 

前山光則

 時折り、歌集とか句集とか詩集といったものを本棚から取り出して読んでみる。なかなか愉しい。というのは、小説やノンフィクションなど散文の本であれば、やはり第1ページから目を通して、最後まで読んで行かねばならぬだろう。しかし、韻文を集めた本であればパラパラと本を捲って、気の向いたところから味わうことができるので、気楽で良い。
 先日、そのような気易さから取り出してみたのが岡部六弥太という俳人の句集『花信』
であった。平成19年(2007)に弦書房から刊行されており、大正15年(1926)生まれの俳人にとって第9句集であったそうだ。福岡市に住んで俳誌「円」を主宰し、長らく活躍した人であるから、その名は以前から知っていた。しかし、実際に作品にじっくりと接したのは初めてであった。
 やはりなかなか良いなあ、と感じ入った。惹きつけられる句がだいぶんあった中から10句に絞って揚げてみれば、

 湯たんぽの湯こぼす音のまだ眠し
 春待つや駅のベンチの忘れ本
 卵生む亀のあがきや旱梅雨
 特攻遺影今も十八雲の秋
 遍歴の国に肥後あり一茶の忌
 生身魂とは俺のことごろ寝せり
 新任教師長身美男運動会
 官薩の死闘の坂や黄たんぽぽ
 盗み飲み酒の甘さよ牧水忌
 父よりも子よりも生きて寒卵

 高浜虚子や野見山朱鳥、河野静雲等の影響の下に作句を続けたそうだから、基本的には伝統俳句というか、花鳥諷詠を基本とする立場に居たようだ。読んでいて、そうしたものが自ずと伝わってくる。
 しかし、1句目で湯たんぽの湯をこぼしながらまだ眠くて仕方がない、というのを「湯こぼす音」に託して言い表す。うまい詠みっぷりである。4句目は、福岡県筑前町にある大刀洗平和記念館での詠だそうだ。特攻で戦死して行った若者への、心からなる哀悼の句。遺影は、実に何十年経っても十八歳のままなのである。そして、6句目「生身魂」は、「いきみたま」と訓む。お盆に、一家の長老を生きた御霊として祀ることをこう呼ぶが、作者はごろ寝する自身をわざと「生身魂」とみなす。この戯けぶりが面白い。 
 7句目は漢字ばかりが並んで一句が成立している。これは、作者があえて狙ったのであろう。漢字が連なれば固い印象が生じるはずなのに、そうでない。初々しい新任教師が、スリムな体つきで、スッキリと背が高い、だから運動会で目立っている、というのである。漢字の羅列によって句を成立させることで、むしろユーモラスな効果が生じている。
 9句目も見事である。作者は、どうも、何らかの事情で酒を禁じられていたのではなかろうか。でも、飲みたくてしようがない。秘かに手を出したのだが、そのような悪さをする時の酒の「甘さ」、これは飲んべえでなくては味わえない愉楽だ。そして、それは、晩年になって酒を禁じられながらこっそり盗み酒することをいじましく続けた歌人・若山牧水を想起させたという、これは牧水の命日(9月17日)に詠まれているのである。
 いや、それで、先人の命日に託して詠んだ句といえば、5句目の「遍歴の国に肥後あり一茶の忌」、これには「そうか、知っている人にはちゃんと自明のことなんだ!」と新鮮な驚きを覚えた。小林一茶の忌日は陰暦11月19日(文政10年)、この忌日に接して、作者は「一茶の若い頃の西国遍歴には、肥後の国も含まれていたよなあ」との思いが湧いたので、句に詠んだことになろう。そして、その際の「肥後」とは一茶が若い頃3ヶ月もの長い間逗留した熊本県八代のことを指す。
 実は、このことについてエフエムやつしろ発行のタウン誌「かじゅめる」2021年冬の号で次のように紹介したばかりであった。
   *            *
 
 君が代や旅にしあれど笥の雑煮 小林一茶   
 冬が来てただただ寒い凍(こご)えると嘆くような人は、まさかいないだろう。世の中が冷え込むのは、冬将軍がやってくるからであるが、しかしめでたいお正月も近いのである。
 そこで、正月を詠んだこの句、作者はご覧のとおり江戸時代の俳人・小林一茶である。一茶は信州信濃の人であり、九州には縁が薄いと思い込んではいけない。実は、一茶はこの句を寛政5年(1793)元日、八代市本町三丁目の正教寺(しょうきょうじ)で詠んでいる。これは、万葉集に出てくる有間皇子(ありまのみこ)の歌「家にあれば笥に盛る飯(いひ)を草枕(くさまくら)旅にしあれば椎の葉に盛る」が踏まえられている。「君が代や」とは、世の中が穏やかに治まっていることを指す。自分は今、旅をしている身ではあるものの、古歌にあるような野宿をせず、椎の葉っぱに飯を載せることなどせずに済んでいる。あたたかい家に泊めてもらい、こうして笥(椀)に盛った雑煮をいただき、お正月を祝うことができている。実に平穏で、ありがたいことだ、感謝、感謝といった気持ちなのである。
 当時、一茶は31歳、まだ若かった。俳諧修業のため諸国を経巡(へめぐ)っており、正教寺の寺伝(じでん)によると寛政4年12月25日に訪ねて来たのだそうだ。そして3ヶ月もの長い間滞在したというから、正教寺での居心地の良さは言うまでもなく、八代という海辺の町は実に過ごしやすかったに違いない。
 当時、正教寺には第10世住職・藁井文暁(わらい・ぶんぎょう)がいた。文暁は俳人でもあった。そして、松尾芭蕉の最期の模様を詳しく描いた『花屋日記』の作者でもある。『花屋日記』は、後年、芥川龍之介がこれをもとにして小説「枯野抄」を書いたほどの名作。一茶はこの文暁を頼って来たのであった。
   (連載「いい句見つけた」第54回)
  *            *
 「かじゅめる」誌上での連載「いい句見つけた」は、初めからずっと明治以降のものばかりを紹介してきた。古典作品よりも近現代の俳句の方が読者には親しみやすいだろう、と思うからである。でも、今回だけはこうして江戸時代の作を扱ったのであった。一茶は、「君が代や旅にしあれど笥の雑煮」の他にも八代滞在中「花じゃぞよ我もけさから三十九」等の句を遺した由である。
 ともあれ、江戸時代にあの小林一茶が3ヶ月もの長い期間わが町に滞在したことがある、などとは八代市民としても知っておく方が愉しいのではなかろうか。そのような軽い気分であったが、結構反響があった。八代市民から「知らんだったなあ」「一茶が来たとはねえ」などと、驚きの声が次々に届いた。遠くにいる知人・友人にも雑誌を送ってやったら、やはり反響が良かった。沖縄在住の詩人・高良勉氏は、「小林一茶は大好きです。たぶん俳人の中では一番好きです。一茶と八代の縁には驚ろきました」と便りを下さった。大学時代の同級生で神奈川県横浜市在住の北村透谷研究家・鈴木一正氏は、「小林一茶が九州まで行っていたこと、『花屋日記』の著者が八代・正教寺の住職であったことは初めて知りました」と便りをくれた。書いてみて良かったなあ、と思った次第であった。
 しかし、である。やはり、知っている人は実はずっと以前から確実にいたのであった。それが、「遍歴の国に肥後あり一茶の忌」という句ではっきり知れるのであり、しかも作者はどうも旅好きであるようだから、実際に八代市本町三丁目の正教寺を訪ねてみたのではなかろうか。そのように推測したくなった。
 ともあれ、そうした発見もこの岡部六弥太句集『花信』から見出すことができた。
 発見といえば、もう一つ、この句集を読み終えて自分で好感を持った作品を先のように10句だけ引いてみたのであったが、その後になって句集の帯の裏側に「著者十句」が刷り込まれていることに気づいた。著者・岡部六弥太氏自身が気に入っている自作句を、披瀝してあるのだ。そのうち5句は『花信』にも載っているから、引いてみるが、

 憂さ捨てに来て拾ふなり桜貝
 日の天へ万枝を立てて臥竜梅
 薄墨桜この世の花と天覆ふ
 田を植ゑて伊那の七谷との曇り
 秋風や癌焼く熱に目を瞑り

 すると、あることに気づかされた。つまり、わたしが好ましく思って先に引いた句が、ここには一つもないのであった。そのことに気づいた時、アッと声を挙げたいほどだった。ははあ、わたしはわたしなりになるべく慎重に客観的に選んでみたが、結果、それは著者自身の選とおよそ隔たってしまっていたか。これは面白いことだなあ、と、思わず苦笑したことであった。
 こうしたことも、読書の愉しみの一つに加えて良いのではないだろうか。
 
 
 

▲石蕗の花 さほど目立たない花だが、冬の寒い時期に咲く。花の少ない時季に目を愉しませてくれるので、ありがたい