第415回 3月31日という日は……

前山光則

 3月31日、友人が五家荘(ごかのしょう)に行く用があるというのでつきあった。
 五家荘は久しぶりであった。八代の町なかから出発し、大通峠(おおとり・とうげ)を越していったん五木村に入った後、川辺川(かわべがわ)を遡る。久連子(くれこ)・椎原(しいばる)・仁田尾(にたお)・葉木(はぎ)・樅木(もみぎ)、この5つの地区を総称して「五家荘」なのだが、友人は全部をまわって用を済ませなくてはならなかった。しかし、なにせ広い。お互いの地区の中心部が10数キロといった感じで隔たっており、しかも山の中。クネクネした谷間道や、水害により道が壊れたままで迂回路しか通れないところもある。
 まずは、早速、五木から久連子に入るのに崖崩れ箇所を避けて延々と遠回りし、山越えしなくてはならなかった。だから、午前9時半には出発したにもかかわらず、久連子の中心部に入った時には昼飯時になっていた。
 でも、行ってよかったと思う。何より桜が満開状態であった。五家荘は植林地よりも雑木山の方が圧倒的に多い。だから山という山に桜が咲いており、まさに俳句でいう「山笑う」の状態。町で買って来た弁当をつつきながら四方八方の山を眺め渡すのは、目の保養になった。町では味わえないひとときが過ごせたのだった。
 そして、午後、椎原・仁田尾・樅木・葉木と廻ったのであったが、葉木では古くからある民宿が健在だった。友人はそこのご主人と顔なじみなのだそうだ。広い敷地内に入ってみたところ、まず大きな犬が迎えてくれた。えらく素直で、手を差し伸べて撫でてやるとすぐに馴れてくれた。逞しい体つきのご主人も屋敷から出て来て、わたしもご挨拶して名告りもした。友人としばらくは談笑が続いた。
 ご主人はわたしが名告っても反応を示さなかったが、実はここはわたしとしても懐かしい場所であった。あれはまだ平成10年前後の頃であったか、はっきり記憶しないが、熊本在の民俗研究家・江口司さんが連れて来てくれた。あの時は神奈川県座間市在住のわたしの兄も一緒で、鹿児島県の内之浦にロケット打ち上げ実験の仕事で赴く途中、八代に立ち寄ってわたしたちの山村歩きにもつきあった。そしてこの民宿に宿泊したのであったが、江口さんはまったくの下戸、兄とわたしは山菜料理や山女魚・猪などを味わいながら大いに呑みまくった。ところが、夜、寝入ってからにわかにわたしの腹具合がおかしくなり、激しい下痢・嘔吐が始まって夜通し苦しんだ。あれはどうも、夕食の時に山女魚の卵の塩漬けが出たが、それがアタッタのである。大騒ぎになって、宿の人たちにもすっかり迷惑をかけてしまった。あの夜、江口さんはやさしかった。つきっきりで介抱してくれた。
 江口さんは、やがて、平成18年(2006)には弦書房から『不知火海と琉球弧』を出版し、熊日出版文化賞に輝いた。
 そんなことが、ご主人と友人との語らいを耳にしながら思い出されて、なんだか懐かしくなってしまっていた。それで、夜通し悶え苦しんだ時の思い出話をしてみたが、ご主人はまったく覚えておられなかった。
「へえ、そぎゃんことがあったですか」
 遠くを眺めるような顔つきである。
 しかし、それからまたひとしきり雑談が続いたのだが、ふとご主人が愛犬の頭を撫でながらわたしの方へ向き直った。
「あのー、あんたは、もしかして、前山さんでは、なかですかなあ」
 ほれ、だから、さっきちゃんと名告ったではないですか、と言いたかったが、聞こえていなかったのだろうか。いや、だが、それは、ま、いい。やっと気づいて下さったのか、と、嬉しかった。
「そぎゃんですよ。ほら、さっきも言ったでしょう、江口司さんに連れてきてもろうて、わたしの兄も一緒で」
「ほお……」
「それで、ぼくが腹下ししたり吐いたりしてしもうて、迷惑かけて」
 とくり返したのだが、そのことにはやっぱりポカーンとした顔。まったく記憶に残っていないふうだ。むしろ、ご主人が仰るには、
「いや、わしは、江口さんの葬儀の時にあなたが居られたことをば、今、思い出したとですたい」 
 はあ、そうか、そうなのか。どうも、そのことの方が忘れられなかったらしい。
 無論、わたしとしても同様であった。
 あれは、平成20年(2008)3月29日、江口さんが人吉の実家に泊まっていたわたしを迎えに来てくれて、一緒に不土野峠(ふどの・とうげ)を越え、宮崎県日向市東郷町へ出かけた。数年前から2人は日向市の市史編纂委員会から依頼された『東郷町民俗誌』編纂・執筆のため、度々現地へ取材・調査に行っていた。江口さんは民俗誌の中の民間習俗について、わたしの方は旧東郷町坪谷(つぼや)が生んだ歌人・若山牧水についてまとめるよう、依頼されていたのである。
 東郷町は、どこもかしこも山桜が満開、たいへん気持ちよかった。その日は日向市内に泊まり、30日には市史編纂室で今後のことについて打ち合わせを行ない、早い内に高千穂町を経由して県境を越えた。熊本市内で江口さんと別れた後、午後6時の電車に乗って八代に帰着した。
 そして、翌々日の4月1日、女房を伴って長野・群馬県方面への旅に出たのである。学校勤めを3月末日付けでもって定年退職したばかりのわたしは、身軽になっていた。牧水の紀行文「みなかみ紀行」の旅のルートを、実地に辿ってみたかったのだ。その日は、長野県小諸市の中棚荘という老舗旅館に宿泊。ところが、夕刻、ゆっくりした気分で女房と共に風呂上がりの晩酌を愉しんでいたところ、毎日新聞熊本支局の若い友人から電話がかかって来た。その友人が、
「江口さんが、三角半島で亡くなったですよ」
 と告げるではないか。
「……バカなこと、言わんでよ」
 4月1日である。エイプリル・フールかと思った。
「いや、本当のことなんですよ」
「エッ、そんな……」
 まったく信じがたいことであった。
 なんでも、江口さんは30日にはわたしと別れてまだ明るいうちに帰宅したものの、夜になってから釣り道具を車に載せてまた出かけたのだそうであった。元気者の彼は、大物の魚を家族に食べさせてやりたくて夜釣りを思い立ったらしい。そして、夜なかに日付けが変わってからも海岸で竿を振っていたのであろう。ところが、暗がりで釣りを続けるうちに海に落ちてしまった、ということであるらしかった。ほんとに何ということであったろう! 享年、56。あまりにも早すぎる死であった。あの時のショックというか、悲しさは、15年経った今も癒やされていない。
 江口さんの葬儀は、4月3日に熊本市内の葬祭場で行われた。その折り、民宿のご主人も来ていたし、わたしはわたしで旅行を中止して引き返し、葬儀に参列したのであった。まったく憔悴しきっていた。ご主人は、その時のわたしを思い出して下さったわけだ。
「もう何年経つかねえ」
 とご主人。わたしの頭に「3月31日」がありありと甦っていた。だから、身を乗り出して、
「はい、そう言えば、ちょうど15年前ですよ。今日が命日ですから」
「ああ、そうですな、うん、今日は江口さんの命日たい……」
 そうである。3月31日。江口さんの命日に五家荘へ来て、こうして思い出深い民宿に立ち寄っている。ご主人はわたしのことを思い出してくれたが、それはしかもあの悲しいお葬式での印象が残っていてのことであったか。あの日わたしの様子がどんなふうだったか訊ねてみたい気もしたが、止めておいた。聞くだけ辛(つら)くなるなあ、という気持ちだった。
 しかし、それにしても、
「江口さんが、こうやって会わせてくれたとですな」
 ご主人がしみじみした顔つきで呟いた。
「いやあ、まったく、ほんと、そぎゃんですよ……」
 なんだかもう、胸いっぱいであった。小柄な体つき、何にでもよく気がつく人であり、いつもニコニコして愛想の良かった江口司さん。その面影が懐かしく甦ってきた。
 江口さん、今、五家荘に来ているよ。葉木集落の民宿のご主人は相変わらず元気でいてくださるし、今日の五家荘はどこも桜が花盛り。15年前の東郷町での山桜も満開状態だったけど、今、ここも最高に素敵な景色だよ、と、心の中で呼びかけていた。

▲写真 いまは、ハナミズキが満開。桜はさすがにどこも散ってしまったが、こうやって別の花を愉しむことができる。良い季節である。