第457回 思わぬ出費

 先日の火曜日、気の置けない友人2人と夕食を共にした。
 実は、3人とも独り暮らしなので、毎週火曜日と水曜日、一緒に街で外食することにしているのである。家に居て一人だけで料理を作り、食べるのは気楽だが、ときたま淋しかったり、侘しかったり、疲れているときなどは面倒でサボりたくなったりする。だから、町の食堂に出かけて、一緒に食事をしながら、お互いの愚痴や自慢話やらを出し合っているわけだ。
 それで、である。その日は繁華街の裏手にある老舗の洋食店へ行ってみた。そして、オムライスを食べてみたら、たいへんおいしい。さすが昔から定評のあるお店、たいしたもんだ、と3人とも感心したのだった。
 食べているうちに、最年長のA氏が、ビールを飲みながら言い出した。
「おい、ここはビーフシチューもあるゾ。食べてみようばい」
 ほう、ビーフシチューか。懐かしいなあ。A氏の提言に、大いに気持ちがそそられた。S氏だけは、
「いやあ、ぼくはこのオムライスだけで充分だ」
 と冷静だったが、A氏は店の人に向かって、
「ねえ、ママさん、ビーフシチューもあるとだろ。ひとつ、お願いしますよ」
 陽気に声をかけた。すぐに愛想の良い返事が返ってきた。
A氏が、
「ほれ、あんたも、ビーフシチューを、どぎゃんね」
 薦めるので、ついついわたしも頷いたのであった。
 ビーフシチューがテーブルに運ばれてくるまでに、だいぶん時間がかかった。A氏は、ビールをあおり、オムライスを平らげてから、
「まだかねえ」
 調理場の方を眺めてみるのであった。
 そして、ようやくビーフシチューが運ばれてきた。いやあ、わたしとしては懐かしい御馳走であった。
 この連載コラムでもかつて触れたことがあるように、わたしは、学生時代、昭和44年1月(1969)下旬から46年(1971)5月末日まで東京銀座四丁目の銀之塔という料理店でアルバイト生活をしたのだが、そこの正式メニューはビーフシチューとグラタンだけなのであった。時折りなじみ客がメニューにない料理を所望する時もあって、そんな時は店のおばちゃんが前もって材料を仕入れて特別にこさえてくれることもあった。
 その銀之塔には約2年4ヶ月働かせてもらったわけだが、その間、店では、いつも午後4時から5時までの間にビーフシチューを食べさせてくれた。銀之塔は、いつも入り口前に行列ができてしまうような人気店だった。だが、4時から5時の頃だけは割りと空席が生じていたから、つまり、スタッフとしてはその間、食事することができるのであった。
厨房で、いつも立ち食いだった。毎日食べても飽きない、おいしい御馳走であった。
 さて、先日のわが街でのビーフシチューであるが、待っているうちにようやく店の人が運んできてくれた。A氏もわたしも、おもむろに食べ始めたのであったが、なかなかに悪くない味だ。よく煮込まれた牛肉が、口の中へ入れるとふっくらとした感触。味がよく浸みており、噛みながら、呑み込みながら、嬉しくなった。これは良く煮込んであるので、学生時代に銀之塔で毎日食べさせてもらっていた、あの頃の味わいに迫るおいしさだ、と思った。
「うーむ、これがビーフシチューというものたいねえ」
 A氏は満足そうだ。わたしはわたしで、
「いやあ、学生時代を思い出すなあ」
 ウットリした気分。そんな二人を、オムレツライスだけで食事を済ませたS氏は、微笑を顔に浮かべて眺めている。
 しばらくは、A氏もわたしも寡黙にビーフシチューと向き合って、味わいを堪能したのだった。
 さて、そして、である。
 無事に料理を平らげて、満足。さて、お勘定だ。
「おいくらですか」
 と店の女の人に声をかけたら、しばらくレジに向かって計算作業をしていたが、やがて、のたもうた。
「はい、5280円でございます」
 それを聞いて、わたしは思わず、
「エエッ!」
 おののいてしまった。耳を疑ってしまう金額だったから、明細を出してくれるようお願いしたら、店の人はやがて表情も変えずにメモを渡してくれた。
 それを見せてもらったところ、いやはや、間違いない。オムライス1500円、ビーフシチュー3300円、合計4800円、これに消費税480円がついて、合計額は確かに5280円なのであった。A氏はこれに生ビールの分も加わっていたので、支払いの総額は7000円を超えてしまっていた。
 A氏もわたしも、しばらく唖然として黙り込んでしまった。いやはや、これはまことに思わぬ出費、なんともすごく贅沢過ぎる夕食となってしまったのだった。
 いや、というよりも、正直なところ忌々しい思いであった。
 なんだか納得しかねるので、帰宅してから念のためインターネットで調べてみた。つまり、わたしが働いていた銀之塔、あそこは今どのくらいの料金であろうか。
 そしたら、ビーフシチュー(泥鰌鍋に用いられるような土鍋に入っている)だけでなくサラダのようなものが入った小鉢2品、御飯1椀、お漬物1皿、このセットでの合計額が税込み2950円。ほらほら、見ろ。物価の高い東京ではあっても、やはりこの程度のリーズナブルな金額でビーフシチュー主体の食事が楽しめるはずなのだ。
 ちなみに、銀之塔は、歌舞伎座に向かって右側二つ目の小路を入り、2、30メートル進んだところの左側、かつて反物屋の在庫収納蔵だった建物を改造した店舗である。ここは昭和30年(1955)創業だから、立派に「老舗」である。名作戯曲「大寺学校」「三の酉」等を著して活躍した劇作家・久保田万太郎が、「フランスはパリの名店トゥールダルジャンに倣(なら)って銀之塔と名告りなさい」と店の初代経営者(わたしたちはいつも「おばちゃん」と呼んでいたが)に助言してくれたのだそうだ。何年か前に上京した折り、久しぶりに娘と共に食事しに行ったが、あの時も満員で行列ができていたので、だから、しばらく店の前で順番待ちしたのだったなあ。そして、熱々のシチューにようやくありつけたが、相変わらず大変おいしくて嬉しかった。申し訳ないが、八代の高すぎるビーフシチューは、それなりにおいしいものの、銀之塔に比べたらやはりまだまだである。
 銀之塔の佇まいが、入り口の瀟洒な暖簾が、そしていつもエプロン姿でまめに働いていた店のおばちゃんの細身の姿が、まことに懐かしく甦るのだった。