前山 光則
この頃、わたしの住む八代市の昭和30年代について折りに触れて調べたり、色んな人から話を聞かせてもらったりした。これが、なかなかおもしろかった。その中の一つに、あの頃の八代の人たちが毎日聴いたという「ミュージックサイレン」のことがある。
町の中心部の商店街は今はさびれているが、かつて活気に満ちていた。商店街の核となっていたのが、昭和31年12月1日に開店して昭和51年まで営業をした太洋デパート八代店である。地上5階・地下1階で、当時の八代にはまだ高い建物はなくて目立ったそうだ。デパートであれば、親に連れられて買い物をしたことや食堂で御馳走を食べた記憶等が人々の口から一番に出てきそうだが、違う。何より先に懐かしそうに語り出されるのが、「ミュージックサイレン」の思い出なのである。午後6時になると、決まって太洋デパートの屋上から「夕焼け小焼け」の曲が流れたのだそうだ。「夕焼け小焼けで/日が暮れて/山のお寺の鐘が鳴る/お手々つないで/みな帰ろ/からすと一緒に 帰りましょ」、この歌だ。ミュージックサイレンだからメロディだけが町に響き渡るわけだが、それを聴くと、あの頃の子どもたちは外で遊びほうけていても「あ、帰らんといかん」という気持ちになっていた。そして夜の9時には「埴生(はにゅう)の宿」。このメロディが夜の町に響いたら、「ああ、早く寝なきゃあ」と思う……、これが毎日続いていたから、太洋デパートというならすぐさま「夕焼け小焼け」「埴生の宿」の思い出が甦るのだそうである。
公共の施設でなく、一企業が市民に時間を知らせてくれていたわけである。これで多くの子たちが規則的な帰宅や就寝の時間を自覚したことだろうから、太洋デパート八代店は青少年育成のために大いに貢献していたと言える。とにかくミュージックサイレンについては皆さん例外なく眼を輝かせて、「あん頃は車も通らんだったから、道路で遊びよった。ばってん、サイレンが聴こえたら帰りよった」「夜に聴くと、しんみりしよった」「遠くに居ても分かりよったぞ」等々、次から次に思い出話が飛び出てくる。八代で育っていないわたしには、羨ましくてしかたがない。
さて、夕方も夜も曲が流れていたのなら、朝も何か曲を聴いたはず。ところが、である。「聴いた気がするが……」「お手々つないで野道を行けば……だったような」「……靴が鳴る、だった?」、皆さん途端に記憶が曖昧になってしまう。これはまたなぜだろう。「夕焼け小焼け」「埴生の宿」について話しを聞くのと同じくらいに、朝の歌についての記憶の不確かさは興味深く感じられた。「朝は慌てて学校まで走って行きよったからなあ、耳に入らんだったとばい」、何人かの人が苦笑いしながらそんなふうな答え方をした。うむ……多分、そこらへんが正解なのであろう。