第175回 懐かしい名が次々に

前山 光則

 前回触れた後藤是山記念館、帰り際には是山が主宰した俳誌『東火』のバックナンバーを「だいぶん余ってますので」と計6冊も土産に持たせてくださった。これには恐縮した。そして、帰宅後『東火』をパラパラめくっているうち、若い頃のことが一気に甦ってきた。
 高校時代、へっぽこ俳句をひねって熊本日日新聞等に投稿していたら、かかりつけの医院長夫人が「基礎から習いなさい」と大人の句会への参加を勧めてくれた。岡トシエという人である。高校生の五七五が下手くそで、見かねたのである。連れられて行ってみると、句会の場は人吉市九日町の堀内眼科医院で、そこのお医者さんが俳号を石松子(せきしょうし)と称して句会の指導者だった。毎月の句会に加わり、時には戸外での吟行会にも参加させてもらった。今思えば、句会の席での石松子氏や他の参加者たちの話題にしばしば上村占魚・後藤是山といった名が出てきていた。つまりは、堀内眼科医院に集まる人たちは、皆、『東火』の会員であったようだ。
 いただいてきたバックナンバーの昭和24年9月・10月合併号には石松子「手花火や少女二人の顔と顔」や文子「はなやかに花火終えたる水の冷え」等、東火人吉句会の作品が載っている。文子さんは石松子氏の奥さんだ。つづく11月号の西創生「秋寒し天蓋垂るる古御堂」、この人は人吉市駒井田町に住んでいた。26年11月号には杉島好古の「無花果に来よと女の誘ひけり」との艶めいた作が出ていて、この好古氏も駒井田町にいた自営業の人で、息子さんはわたしと同級生である。同じ号の「夕顔や夜の化粧に憂あり」の堤千代子さんは九日町の病院長夫人、というふうに実に懐かしい名が次々に登場する。
 昭和53年5月号(500号記念号)の堀内胡孫「思い出すまゝに」によれば、石松子氏は大牟田市にいた昭和7、8年頃にはすでに是山のこの「東火」に投句していたそうである。郷里に近い人吉へ越してきたのが昭和10年で、それからは自分の家でしばしば句会を開くようになったのだという。すぐ近く紺屋町の鰻屋に育った上村占魚氏も、寄宿先の是山宅に居ることが多かったものの人吉へ帰ってきた時には堀内眼科医院での句会に参加していたそうで、とすれば昭和12年から14年にかけての時期だったのだろう。
 長い歴史を持つ句会を、わたしなぞは昭和39年から40年にかけての一年余だけ覗いてみたに過ぎない。しかし、その間そこには学校で習えない豊かな世界があり、たくさんの栄養分を分けてもらった。しかも、句会に来る人たちは市井の医者であり、主婦や看板屋さんや商店主なのであった。小さな田舎町のあちこちに、ハイク・ポエットがこんなにも多く存在する。『東火』バックナンバーをめくりながら、日本は市民の文化度が高いなあ、とあらためて感心せざるを得なかった。

▲堀内石松子句碑。人吉市西間下町の南光寺境内。石松子氏の句「竹を伐る谺一日の雲流る」が刻まれている。昭和49年建立。堀内氏は明治21年、球磨郡多良木町生まれ。句集を遺していないが、生涯に詠んだ句は10万句を超すといわれている。昭和48年死去