第190回 俳句は世界文学

前山 光則

 梅雨に入ってよく雨が降る。散歩や庭いじりのできない日があるが、その代わり家の中で本は読める。雨の日の読書は愉しい。
 ドナルド・キーンとツベタナ・クリステワの講演を一冊にまとめた『日本の俳句はなぜ世界文学なのか』(FUKUOKA U ブックレット❻、弦書房)を読んだ。ドナルド・キーン氏はニューヨーク生まれのアメリカ人だが、日本文学研究家としてよく知られている。3年前の東日本大震災後、日本に永住することを決意して国籍も取得したから、今では立派に「日本人」である。ツベタナ・クリステワ氏は、ブルガリア生まれ。現在、国際基督教大学日本文学科教授だそうだ。
 ドナルド・キーン氏は、俳句や短歌のような詩型を2000年前から日本人は使ってきている。これは他の国にない現象であり、「日本の詩歌の一つの魅力」だと語る。日本人自身はこんなふうに自国の文芸について自覚したことはなかったなあ。かつて浮世絵の魅力が欧米人によって見出されたように、俳句や短歌もまた外からの新鮮な感覚と広い視野とによって引きだされたのだな、と感じ入った。それと、二人の話には共通して音韻、音の美しさが強調されている。キーン氏は、松尾芭蕉の「閑さや岩にしみ入る蝉の声」について「いいわにい しいみいいいる せみいのこえ」、つまり、い、い、い、い……とつづく、これは蝉の鳴き声だ、と説く。ツベタナ・クリステワ氏の話の中には、服部嵐雪の「梅一輪一輪ほどのあたたかさ」、これは三つの「o」の「ほどの」が開花の継続を示し、「a」の音節が並んだ「あたたかさ」は「たくさんの梅の花が咲いた景色」を想像させてくれる、と論じる。こんなこと、日本の俳人たちは昔も今もどれほど自覚的であったろうか。
 この本を読んで思い出したのがジャック・スタム句集『俳句のおけいこ』である。

  ポニーテールぴょんぴよん春を告げている
  口笛が角を曲がった春の宵
  梅咲いてまたひととせの異国かな
  梅雨ごもり眼鏡かけたりはずしたり
  玄関に青き迎えや雨蛙
  ではまたとうなじつめたき今朝の秋
  レモンの香俺にも若き日のありき

 今読み返しても感心する句ばかりである。ジャック・スタム氏は1928年にニューヨークに生まれた人で、職業はコピーライターをやっていたらしい。「梅咲いてまたひととせの異国かな」と詠んだとおり日本生活が長くて、30年以上住んだ。俳号、「雀酔(じゃくすい)」。この人なども、句を詠むときに音の美しさとか韻を踏むことをだいぶん意識していたのだろうか。どんな俳句観を持っていたか聞いてみたいものだが、残念ながら1991年(平成3)に亡くなっている。この世にいないのだからどうしようもない。
 
 
 
写真 温泉場のハイビスカス

▲温泉場のハイビスカス。八代市の日奈久温泉。なぜかハイビスカスが町のあちこちに咲いている。梅雨のさなかにもまっ盛りである

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