第197回 漱石の俳句を読む

前山 光則

 年に2回、寒い時季に地元図書館の文学講座の講師を務めている。今年度は「漱石と熊本」「山頭火と蓮田善明」というテーマでやろうと考えており、まだ先のことで慌てる必要はないが、折りに触れて準備しておきたい。それで、まずはこの1週間、全集を借りてきて夏目漱石の熊本時代の俳句を読んでみた。この当時の漱石は、第五高等学校の教師をしながら俳句を盛んに作っているからである。 
 明治29年の4月に四国松山から転居して来て、やがて夏。その頃の句が「すゞしさや裏は鉦うつ光琳寺」である。翌年の年末から教師仲間の山川信次郎と共に有明海辺の小天(おあま)温泉へ旅をし、新年を迎える。小天で詠んだ句の一つが「温泉や水滑かに去年(こぞ)の垢」だ。この時の旅が後に名作「草枕」に結実する。「安々と海鼠の如き子を生めり」は明治32年5月に長女・筆子が生まれた時の句。「二百十日」の題材を得たのが同年8月末から9月上旬にかけての阿蘇への旅で、内牧温泉で「雪隠の窓から見るや秋の山」「秋の川真白な石を拾ひけり」と詠むし、阿蘇神社に詣でて「朝寒み白木の宮に詣でけり」の句を残している。皆して阿蘇山に登ったものの道に迷ってしまい、大変な目に遭う。その折りの句が「行けど萩行けど薄(すすき)の原広し」、いかにも難渋したろうことが窺える。
 漱石の熊本時代の作はおよそ900余に上り、かなり熱心だったし、詠みっぷりも立派に専門俳人級である。むろん、「なんのその南瓜(かぼちゃ)の花も咲けばこそ」「長けれど何の糸瓜(へちま)とさがりけり」「真夜中は淋しかろうに御月様」と戯けたり、小林一茶の向こうを張ったのか「凩のまがりくねつて響きけり」、このような句もひねっているから、漱石にとって俳句はストレス解消、気楽な言葉遊びだったろう。「文人俳句」の部類に入れられてもしかたないところであるが、しかしそれでも人物のスケールの大きさは自ずと反映される。

  木瓜(ぼけ)咲くや漱石拙を守るべく
  菫程な小さき人に生れたし

 この2句などは、作者本人にしっかりした人生哲学がなくては湧いて出ないはずだ。
 それから、個人的には「秋の暮一人旅とて嫌はるゝ」という句に惹かれた。この句は明治30年作である。どこで詠んだか分からないが、漱石の生きていた頃もそうだったのか、と深く同感するわけである。わたしなども6年前に若山牧水の足跡を辿って1人で群馬県の山間部を10日ほど旅した折り、旅館に宿泊を申し込んで次々に拒絶され、困ってしまった経験がある。どうにか泊めてくれても、疑り深い視線にさらされる。ビジネスホテルではそんな目に遭わなくて済むが、田舎の旅館ではなぜか一人旅は「嫌はるゝ」のである。
 ともあれ900余句、みっちり読めた。
 
 
 
写真 色づいてきた稲

▲色づいてきた稲。八代平野の田んぼでは、今、稲に花がついてきている。ついこのあいだまで青々していたが、なんとなく全体に色づいてきた感じだ。これから実が入り、穂が垂れて、収穫の秋となる