第358回 温泉を楽しんだ

前山 光則

 11月29日は、午前中のうちにかごしま近代文学館で島尾ミホ展の見学を済ませたので、後は気楽であった。昼食を終えてから国道3号線に入り、薩摩川内市や阿久根市、出水市などを経て八代まで帰ることとなった。 せっかくだから、途中でどこかに立ち寄りたかった。
 わたしが車を運転していると、後ろの座席にいたK氏がスマートフォンで色々探してくれた。
「鹿児島県は温泉も多いようだしな」
 と助手席のS氏。
「うん、タカシロ温泉かな、タカジョウ温泉かな、高い城と書く温泉が薩摩川内市の山奥にあるようだな」
 K氏が言う。
「寄って行こうか」
 意見はすぐに一致した。男3人、温泉が好きである。
 折りしも、川内川の河口近くを通り過ぎようとするところであった。K氏によれば、今しばらく国道を走った後、右折して10キロメートルほど山間部の方へ入れば良いのだそうだ。スマートフォンのカーナビが案内してくれるので、助かる。指示通りに進んで行ったら、良くしたもので谷の奥にひなびた集落が現れた。古めかしい民家だけでなく、旅館のような建物もある。ホテル風のものもある。もう営業はしていなさそうな感じのもあれば、やっていそうな、でもそれも辛うじてそうなのかなと言える佇まいの宿屋も見える。なんだか、つげ義春の漫画にでも出て来そうなうらぶれた気配が漂うのは否めない。
 温泉街の奥の方まで進んで行ったら、右手に共同浴場があった。駐車場に車を置くと「西郷隆盛/高城温泉郷」と記した立て看板があり、横に西郷どんが犬を連れた立ち姿。顔の部分が丸く空けてあって、そこに自分の顔をはめ込めば記念写真が撮影できるという、こういうのはあちこちの観光地で見かける。だが、犬の顔にも穴がほがしてあり、
「なるほど、西郷どんの愛犬にも成り代わることができるのか」
 苦笑するしかなかった。
 さて、共同浴場の方へ行ってみる。80歳を越えたような風格の老人がいて、受け付けてくれた。入浴料は200円とのこと、安いもんである。
「高い城って書いて、何と読むんですか」
「はい、ここは『たき』と言います」
 はあ、それで分かった。ここは「タキ・オンセン」と言えば良いわけだ。老人によれば、今、営業している宿屋は4軒しかないそうだ。後は、建物だけ遺っているものの休業・廃業状態とのことだ。なんでも、西郷隆盛が、幕末の頃から西南の役に出陣するまでの間によくこの温泉場に来ては狩りと温泉を楽しんだのだという。だから、駐車場のところには西郷どんと犬とが立っていたのである。そして、受付のところには、つぎのような説明板が掲示してある。

西郷さんは湯田ではよく正城畩助さん[五助さんの父]の家[現在の双葉旅館]に泊まられたが、好んで隣の共同湯に入浴されました。
 いつも隅に入られ、真中に入られたことはなかったといいます。

 聞けば、「湯田」というのは高城温泉の中でとりわけここらの字名なのだそうだ。「現在の双葉旅館」というのは、
「それは、どこにあるんですか」
 と訊ねたら、老人はもどかしそうに、
「だから、ほれ、そこの」
 と隣の古めかしい建物を指し示してくれた。うん、確かに隣は玄関の上に看板が掲げられており、「双葉屋」と記されている。
 そこで、うかつにも初めて気づいた。そうか、われわれは今から西郷隆盛がこよなく愛好した「隣の共同湯」に入浴するところなのであった。
 入浴料を老人に渡す。1人、200円。安いものである。
 タオルを手にして、3人、奥へと進んだ。すると、左手に浴場が現れた。そう広くはない。だが、狭いわけでもない。浴槽は二手に分けられており、それぞれ5人か6人までは入れそうだ。湯の落ちてくる方が熱くて、もう一つの方はそれほどでもないだろうと思って、衣服を脱いで最初にそっちの方へズンブリと入ったら、でもだいぶん熱かった。いや、だが、熱いけれども心地良い。湯が澄みきって、滑らかで、硫黄の匂いが程ほどに良くて、実に快適な湯だ。男3人、初めはペチャクチャお喋りしながら浸かっていたが、やがて言葉が少なくなった。K氏は、頭をクリクリに丸めたいわゆる坊主頭。S氏は頭髪も髭もボウボウと伸ばしっぱなし。2人は60歳台後半、わたしは胴長短足の72歳、この3人が同じ浴槽に浸かっているのだから、いかにもむさ苦しい光景であろう。だが、誰が見ているわけでもないから、気にしない。しばしウットリと、ここ高城温泉のよろしさに浸った。西郷どんは「いつも隅に入られ、真中に入られたことはなかった」のだそうだが、いやいや、浴槽の真ん中でズンブリ、ユックリ、恍惚の気分であった。一度、湯から上がってみた。だが、また浸かりたくなる。そこで、またズンブリ。良質の温泉はほんとに心を癒してくれるなあ、と痛感した。……これで入浴料がたったの200円なのだ。
 湯から上がって、改めて受付の辺りを見まわした。壁に西郷隆盛の写真がある、「敬天愛人」の書がある、NHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」のポスターが貼られている。隅々まで西郷隆盛への敬意に溢れているなあ、と感心した。
 それにしても、良い湯であった。
 壁の隅に、東京の双葉社という雑誌社が平成27年に作成したという「まっとうな共同湯温泉番付」と称する番付表が貼られていたので、見てみた。そうしたら、石川県の山中温泉が東の横綱、愛媛県の道後温泉が西の大関などというふうに格付けしてあるが、ここ高城温泉はどこだ。探してみたら、ずっと下、西前頭の35枚目あたりでようやっと見つけることができた。つげ義春の漫画を連想してしまう温泉街、しかしこんな良い湯の、こんなにも西郷どんへの敬意に満ちた共同湯のある高城温泉だ、もっと上の方に位置づけてやるべきではなかろうか。
 共同湯を出て駐車場へ向かって歩こうとしたら、乗り合いバスがやってきた。これが、なんともレトロなボンネットバスである。こういうのしかないから仕方なく使われているのか、あるいは観光用にわざわざ運行しているのだろうか。狭い道をユルユル、モコモコとやってくる姿はなかなかに愛嬌があった。

▲高城温泉 右から2軒目が共同湯、その左隣りが旅館・双葉屋。

▲共同湯の浴槽 着替え場は右手前にあるが、写っていない。着替え場も浴槽も、古ぼけているものの良く掃除されていて、気持ちいい。

 

▲ボンネットバス 狭い道路を、申し訳なさそうに走る。乗客はいなかったような気がするが……。