第367回 あっという間に毎日が過ぎて…… (2020/6/15)

前山光則 

 今、もう早や6月。梅雨入りして、雨がよく降る。散歩するとあちこちで紫陽花が咲いており、青・赤・紫といったふうに色とりどりで、その一つひとつがみずみずしい。この時季、雨は鬱陶しくて嫌だが、紫陽花を見て歩くのだけは愉しみだ。 
 それはそれとして、令和2年はあっという間に毎日が過ぎてしまいつつあるような気がする。歳をとるとかねがね時間の流れ方が速く感じられるのだが、今年に入ってからはまたなおさらのことであった。 
 とまどうことが、1月28日の夜に起きた。熊本日日新聞社から電話が入り、わたしのエッセイ集『ていねいに生きて行くんだ《本のある生活》』(弦書房)が「熊日文学賞に決まりました」との報せであった。候補に挙げられているということは年末に新聞記事で知らされていたものの、自分の本はエッセイ集である。他に読み応えある力作がいくつも候補になっていたから、まさか自分が選ばれるとは考えていなかったので、たまげてしまった。以来、新聞やテレビでニュースが流れ、知人・友人等から祝福の電話やらメールやら便りやらが相次いだ。わざわざ訪ねてきてくださる方も結構おられた。ありがたいことであったものの、毎日あわただしかった。
 しかし、それよりも今年の時間の流れを速くしてしまう事態がやって来た。新型コロナウイルスである。
 はじめ、中国の武漢で猛威をふるっているのが報じられていた。それが、日本でもクルーズ船での感染者発生等が報じられるようになり、やがて陸地の方でも感染が拡大していった。はたしてどうなってゆくのか、テレビや新聞で注意を怠らなかったが、3月の終わり頃にはタレントの志村けんが、次いで4月下旬には女優の岡江久美子も亡くなった。こうしたニュースはショッキングだった。志村けんは、以前に肺気腫を患った関係で、体に免疫力がなかったようだ。岡江久美子も、乳癌の経験者だそうだ。だが、それはそうだとしても、入院先では必ず手厚い治療を受け、看護してもらったはず。にもかかわらず急速に病状が悪化し、死に至ったというから、これはほんとに困りものだ。わたしなども今まで5度の癌を経験してきているから、免疫力にはまったく自信がない。新型コロナに感染したらコロリとやられてしまうに違いない。
 世界中で感染が広がり、日本国内もほぼ全都道府県が影響下にある。最近ではひと頃よりも感染者の数が減ってきたものの、収束に向けて状況が良くなったという実感はまだ誰も持っていないのではないだろうか。
 わたしの住む熊本県八代市は人口が約12万5千人。今のところ、幸いにも感染者は出ていない。だが、だからといって誰もノンビリとはしていない。町の繁華街は客足がすっかり遠のき、飲食店は苦境に陥っている。日奈久温泉は、泊まり客がない。温泉センターはつい最近まで1ヶ月間休業していた。6月1日から営業を再開したものの、客足は遠のいたままだ。おかげで、温泉好きのわたしなどはガランとした浴場でゆったり浸かって時を過ごすことができる。しかし、従業員さんたちにしてみればこんな状態が続くなら死活問題だ。
 感染者ゼロのままで推移してきた田舎町。しかし、だからこそゼロのままで生活できるよう誰もが神経質になっているのである。戸外を歩くにもマスクをちゃんとはめている。スーパーやコンビニ等で買い物をする際には、客同士お互いあまり距離が縮まらぬよう気を配っている。こういう生活スタイルというのは、この世に長い間暮らして来て、初めてのことである。これがいつまでも続くのか、あるいは来年の今頃にでもなれば、「去年はみんな神経使ったよね」などと笑って済ませられるであろうか。いやいや、あまり楽観視できぬような気がする。どうも、人類は、今、新たな局面に立たされているのではなかろうか、などと不安な気がしてならない。
 そして、新型コロナウイルスとは関わりなく、悲しいことが相次いだ。
 5月7日、熊本市の陶芸家・山本幸一さんが亡くなった。73歳だった。たいへん気さくな人柄で、みんなから「山幸(やまこう)さん」との愛称で親しまれていた。しゃれたセンスの使いやすい日常雑器を作る一方で、自分自身の奥にある意識下の意識と向きあうかのようなオブジェをも制作し続けた。1年ほど前に癌と分かり、療養を続けていたのであった。他人への思いやりが篤くて信頼できる人だっただけに、彼が逝ってしまって実に悲しい、寂しい。同世代であるだけに、おたがい共通する話題がいっぱいあったから、会えば時間が経つのも忘れるほどに語り合うことができた。わたしはかつて大酒飲みであったので、一緒によく飲んでまわったものであった。彼は酔って乱れることもなくきわめて穏やかな飲んべえであった。それに対して、わたしなどしばしば飲み過ぎて、まわりの者に迷惑をかけていた。無論、山幸さんにも、である。にもかかわらずつきあってくれた。なんとも心優しい人であった。わたしの『若山牧水への旅――ふるさとの鐘』(弦書房)が出た時には、「あんたはあちこち旅行ばっかりして遊びまわっとるなあと思っていたけど、ほんとは色々調べるための旅だったんだね。失礼しました」と、笑いながら言ってくれた。嬉しかった。
 熊本市は新型コロナウイルス感染者が出ているので、病人への面会ははばかられた。ずっと我慢していたが、5月6日、堪えきれなくなった。行きつけの喫茶店ミックの主人・出水晃氏と共に山幸さん宅に押しかけて、自宅療養中の本人に面会した。ベッドに横たわった彼は、目をつぶったままで、喋る元気はなかった。ただ、手を握ると、弱々しくではあったが握り返してくれた。帰り際に彼の方を見たら、左手をひらひら動かしていた。それは、きっと、「さよなら」をしていたのだ。だから、「また来るからね」ともう一度手を握ったのであった。あたたかな手であった。 こうしたお別れは、3年前の島田真祐氏の時もそうだったなあ、と、今、思い出す。島田氏は島田美術館の館長をした人で、作家でもあった。弦書房からも小説『幻炎』が出ている。その島田さんが病いに伏せっていた時、やはりミックの出水晃氏と共に島田氏宅を訪れて、手を握りしめてお見舞いのことばを申し上げたのであった。その翌日に亡くなられたが、今でもあのときの島田氏の手の温もりを忘れない。
 この世を去ろうとする方に、山幸さんにも島田氏にもその直前にお会いすることができた。家族の方たちには迷惑をかけてしまったが、今となってはお詫びすると共に、あのとき会わせてくださってありがとうございました、と、感謝の気持ちでいっぱいだ。
 そして、5月21日には福岡市の前衛芸術家・菊畑茂久馬(きくはた・もくま)氏が85歳で逝かれた。このところご無沙汰ばかりであったが、「天動説」「舟歌」等の作品にはいつもため息が出ていた。美術論も凄かった。なかなか菊畑氏のようなダイナミックな美術家には出会えないな、と思う。
 こうして敬愛する人たちがいなくなるのは、やりきれない。というか、なんだか、砂を噛むような思いだ。
 ただ、何日か前、いろいろ考えているうちに、吹っ切れるものがあった。そして、あの世に逝く人たちへ、もう「さよなら」は言わないこととした。いずれさほど遠くない内にわたしなどもそっちの方へ赴かねばならぬわけだ。それこそあっという間にその時はやってくるであろうから、あっちで待っててもらおう。だから「さよなら」などとは烏滸(おこ)がましい。いや、何も強いて待っていてもらわなくても構わない。どうぞ好きなようにやっていてもらいたい。ともあれ、わたしはまだまだあと少しこの世に居残って、日常雑事や新型コロナウイルスの今後やらを見届けるしかない。そして、そのうち、あちらへと赴くか。――そのような気持ちを胸にして毎日を過ごそう、と自分に言い聞かせた。
 今日は、曇り空の下、今にも雨が降りそうな気配だ。気晴らしに、紫陽花のいっぱい咲いているところまで傘さして行ってみようかな。紫陽花は、一番きれいな内にしっかりと見ておこう。今、そんな気持ちだ。

▲古刹の紫陽花 八代市古麓町にある、春光寺(しゅんこうじ)。境内にはいろいろの木が植えられていて風情があるが、今の季節は紫陽花が咲きそろっており、さながら「紫陽花寺」といった趣きである。