前山 光則
秋である。異常気象のため昼間は暑いが、朝夕は涼しい。今朝は散歩の途中、球磨川の橋の上で一休みしたら、川風が気持ちよく吹いていた。肌寒いくらいだった。
鰯雲人に告ぐべきことならず
散歩から帰ってきて、今、この俳句について考えている。作者は加藤楸邨。よく知られている句で、ずっと以前から気になっていた。
実は毎月2回、第2・第4木曜日の昼の1時から3時まで、地元のFMラジオでおしゃべりをしている。若い女性アナウンサーを相手にして旅行の話や文学論、うまいもの談義、世相評論、そして最後に必ず「今日の一句」と称して季節にマッチした俳句を紹介するのである。事前の準備に結構時間がかかって大変だが、毎回楽しい。特に最後の「今日の一句」は、種々の文芸書や俳句歳時記などを本棚から引っ張り出し、時間を忘れて俳句探しに夢中になってしまう。こないだの8月26日の放送では、石川桂郎の「かなかなや腹のへりても食細し」を選んだ。夏が終わり、秋となった頃の句としてふさわしいと思ったのだ。
で、今日も午後からラジオに出るのだが、今回の「今日の一句」は加藤楸邨の作を紹介しよう、と考えたわけだ。けれども、である。
鰯雲人に告ぐべきことならず
これって、どのような句意があるのだろうか。本当言えば、わたしには分からないのだ。鰯雲を見ていると自分自身のことをあれやこれや考えてしまう。しかし、そのようなことは決して人に言うべきことではない、自分の胸の中にしまっておけばいいのだ、ということか。それとも、鰯雲を見て素朴に良いなあと思った。だがそのような感想はわざわざ人に伝えるようなものでもないのだ、ということ? あるいはまた、何か重大なことを知っているが、人にあかしてはいけない、と思い定めた。そのような時、空には鰯雲。今はそれを眺めるだけ、ということか。……どうもはっきりしない。
といったふうで実に意味不明な句であるが、秋になったなあと実感する頃にはきまってこれを思い出す。やはり魅力があるのだ。
だいたい、鰯雲自体が味わい深いと思う。淡く白く、波のようにどこまでも広がる鰯雲。秋が来たなあと実感し、眺めていて飽きない。おのずからいろいろの思いが湧いてきて、「人に告ぐべきことならず」などと唐突に呟かれても不自然さがない。
でも結局、句意ははっきりしない。わたしの考えたことも、所詮は人に告げて良いようなレベルにはなっていないかな?
2010年9月9日