前山 光則
7月3日(日曜日)、曇り。午前9時半頃、町内会のスピーカーががなり立てるので庭に出てみると、「……の皆様、お早うございます。今日は午前10時から港で川祭りを行いますので、どうぞお出でください」、町内会長さんの声である。おお、川祭りか。よし、行くぞ。
わが家からすぐ近く、球磨川から分かれて流れる前川の船溜まり、それが「港」である。家の裏手の路地を抜けて土手へ出ると、すぐ下に船溜まりの駐車場が広がる。駐車場では川へ向けてテントが張られ、テントの中には祭壇が設けてあった。子どもたちが40人ほど、大人たちは20人ばかり集まっていた。
70歳代半ばの町内会長さんが簡単に開会の挨拶をした後、川向こうの神社から来てくれた神主さんによって神事が始められた。和紙に手書きされた祝詞(のりと)をうやうやしく読み上げたり柏手(かしわで)を打ったりで、すぐには終わらない。川祭りの主旨は子どもたちが水難に遭(あ)わぬようにと水神に祈願するのであるが、当の子どもたちにとっては少々退屈らしくて、キョロキョロしたりペチャクチャ喋ったりする。神主さんは時折り「もう少しの辛抱だからね」とか、「はい、こっちを向いててね」と優しい声で子どもたちの顔を祭壇の方へ向けさせる。
テント内での神事は20数分で終了した。大人たちが後片付けをする間、子どもたちはお菓子の袋を貰って大喜びである。彼らにとってはこれが楽しみなのだ。神官さんは、テントの近くに鎮座する恵比寿(えびす)像や桟橋やらに清めの酒と塩を振りまいて行く。このコラム第35回に正月行事のどんどやについて書いたが、夏はこのようにして川祭りがあるのだ。町内会の主催で毎年行われるわけで、だから子どもたちは年中行事の意義を自然と会得してゆくに違いない。羨(うらや)ましいことだと思う。というのも、わたしは球磨川上流、人吉市に生まれ育った人間だが、どんどやも川祭りもまったく知らなかった。あれは、なぜだったろう。わたしが子ども時代を過ごした頃の日本社会は敗戦後の混乱がまだおさまらずに、どこも伝統行事が途切れた状態だったのだろうか。あるいは、人吉市の真ん中だけがもとから何の行事もしなかっただけなのか。他にもモグラ打ちとか、十五夜綱引き等、子ども時代に経験していない。このようなことは以前は別にたいして意識してこなかったものの、年を食ってしまった今、実は寂しい。後片付けを手伝いながら、こういうことを自分も小さい頃に味わいたかったもんだな、と思った。
後片付けが終わって、町内の集会所で打ち上げ会が催された。子どもたちには菓子とジュース、大人たちには鉢盛りが用意され、缶ビールも出た。水揚げされたばかりの鯛も刺身で供された。昼間呑む冷えたビールは実においしかった! そして、たちまち酔った。