前山 光則
先週は、来年1月・2月の八代市立図書館文学講座のテキスト作りにいそしんだ。まだ早すぎるかなとも思うものの、いやいやヒマな内にやっとかないとすぐに時間が経ってしまうからな、と、殊勝な気持ちになったのだ。
年に1度の図書館主催文学散歩ツアーの案内人役も務めるのだが、それで今年度の講座はそのツアーと直接つながるような内容にしてもらえないか、とのことであった。しかも、ツアーの行く先は福岡県小郡市の野田宇太郎文学資料館だという。それなら佐賀県神埼市の下村湖人生家も見学するのが良い、と思った。名作「次郎物語」第一部が小山書店から出版されたのは昭和16年、その折り編集を担当したのが若き日の野田宇太郎氏だったのだ。このコラム第56回「『次郎物語』を再読」は、つまり下村湖人生家と野田宇太郎文学資料館の下見をしに行ったわけである。
といった次第で、1月上旬に「下村湖人『次郎物語』」を、2月上旬に「野田宇太郎と文学散歩」というふうに講座を行なう。その後で文学散歩ツアーをすることになっている。
テキスト原稿の1つとして野田宇太郎氏の略年譜も作成してみたのだが、氏は8歳の時に母親を、そして18歳の年には父親をなくしている。また昭和4年に上京して早稲田大学第一高等学校英文科に入学するものの、心悸亢進症により学業を断念せざるを得なくなる。帰郷したところ、今度は家が破産し、氏は久留米の町で文房具屋を営むことになる。でも、それもうまく行かず、東京へ出る、また戻るという生活。市役所に勤めた時期もある。昭和15年になって東京の小山書店に職を得て本格的に活躍し始めるが、それが31歳の時であった。苦労が続いたのである。
東京にいた頃の一時期、わたしは小さな出版社の使い走り役で野田宇太郎氏宅へゲラ刷りを届けたり、点検の終わったゲラや原稿を受け取りに行ったりしていた。御自宅は私鉄井の頭線三鷹台駅のわりと近くにあった。電車で4、50分揺られて行くのは楽しみだった。お邪魔したついでに文学のこと等いろいろな話を伺っていたし、わたしが夜間大学に通っているということでなにかと励ましてもくださった。ただ仕事のことでは厳しい人で、いつも叱られた。そんな次第で、氏が詩人であり、近代文学研究家でもあり、「文学散歩」という語を創始した人であるのはわたしとしては自明のことだったが、若い頃にたいへんな御苦労があったことは今度初めて知った。
加えて、野田氏を詩人だと承知していても、実際にその詩作品をまとめて読んでみたことはなかった。今回初めて味わってみたが、神経こまやかな表現が敷き詰められていて、ちょっと驚きだった。しょっちゅうお邪魔していたあの頃、自分は野田宇太郎氏から何も吸収し得ていなかったのではなかろうか、と、今、非常に気が咎(とが)めている。