前山 光則
一昨日まで、2週間近く東京・東北方面を旅行してきた。東京では娘のところに泊まり、宿代が要らなくてありがたかったが、ただバスルームがやたら狭い。手足をゆったり伸ばすことができず、窮屈でしかたがなくてイライラする。
女房の方はわたしのようには苛ついていなかった。わたしに「そんなら、セントーにでも行ってみたら?」と意見したのである。おお、銭湯!若い頃に6年ほど東京で暮らしていたが、あの頃は間借りした家にもアパートに住んだ時にも風呂などなかった。近所に銭湯があったから、よく通ったものであった。
娘のパソコンを使って「東京の銭湯」を検索してみた。すると、一つのことが分かった。近辺になかなかそれらしきものが存在しない、という厳粛なる事実。いや、3軒確認できたが、どれも1キロから2キロほども距離がある。この不便さは、つまり昔と比べてずいぶん銭湯の数が減ったのだ、としか思えない。春とは言え、まだ肌寒い。帰りがけに湯冷めしないか心配したものの、でも「セントー」の幻影はやたらと眼にちらついた。
夕方、タオルと石けんを持って出かけた。通りがかりの人に道を訊ねつつ行き着いた銭湯の名は「藤の湯」といって、そこまでかかった時間は約20分、距離は1キロちょっとあったろう。番台にはすごく庶民的な顔つきのおばちゃんがいて、「おいくらですか」と聞くと「450円ですよ」と答える。その時の眼の動きと、衣服を脱ぐ時に湯上がりの若者がわたしをチラリと見たり、浴場に入った際に湯舟の中にいる老人が少し眉を動かしたりした時の表情とが共通していた。いずれも「おや、見かけない顔だ」と訝(いぶか)しげだ。初顔の者に対して敏感に反応しているわけで、割りと常連が多いのだと察せられた。
それはともかく、湯に浸かり、体を伸ばした時の、なんと言おうか、開放感。ああ、自分は体をきれいにしたくて来たのでなく、この伸び伸びしたリラックス感が得たくて1キロ余りを辿ってきたのだ。狭いバスルームでしこしこシャワー浴びる都会人たちよ、ただちにそこを出てここへ来よ、と叫びたくなった。湯の加減もちょうど良かった。見渡せば、タイル張りの壁に大きく海が広がり、ヨットが浮かんでいる。なんていうこともない平凡な図柄だが、しみじみしたものがあった。
翌日は、30分ほど歩いて「亀の湯」というところへ行ってみた。ここも常連が多そうに見えたし、湯の具合も程良かった。もう一つ「藤の湯」にもこの「亀の湯」にも共通していたこと、それは、客のマナーがとてもよろしいのだ。皆、まずていねいに体を洗って後、おもむろに湯に浸かる。いきなりドブーンという野蛮な輩(やから)はいない。
これから東京方面へ出かける時には、どうも、暇を見つけては銭湯巡りをしそうである。いやいや、ぜひそうするゾ。