第162回 葛の花の歌に想う

前山 光則

 このところめっきり秋らしくなり、今、近所の土手下の薮には葛の花が咲いている。
 釈迢空(しゃく・ちょうくう)こと折口信夫に良い歌があったなあ、と思い出している。

  葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり

 高校時代に教科書に載っていたのか、あるいは何か他の本で知ったのかもしれない。とにかく葛の花を見ると浮かんでくる歌である。ではこの歌にどう惹かれたのかと言えば、情けないことに今まで人に対してちゃんと説明できたことがない。そこで、今回は思い切ってこの歌に踏み込んでみるのだが、まず一首の中に一字分の空白を設けたり、句読点を施したりしてあるのが効果をもたらしていないだろうか。読者はこの歌をスルスルと読み下すのでなく、目を留めたり一呼吸置いたりすることになる。特に上句と下句の句切れのところに句点(。)があって、これは最も重要な箇所となるはずだ。ここでは作者がいったん歩みを止めており、だから自ずと読む側も同調せざるを得なくなると思う。
 作者はなぜ立ち止まっているのか。たぶん、葛の花の荒らされ方に驚いている。葛は蔓草である。木をよじ登り、あるいは地を這ってはびこる。そのような蔓草だから、道の整備されたところでは似合わず、これは山中の踏み分け道であろう。この歌の場合、そうした場所で葛の花が「踏みしだかれ」ているから意外だったのである。しかも、つい今し方のことだったかのように新鮮な色合いだ。
 葛の花を踏み荒らしたのは、人であるか、獣であるか。もしかしたら作者はそこまで考えを巡らせたのでは、と思うが、考えすぎだろうか。ともあれ、上句で眼前のことに驚き、考えて、しかる後に下句で「この山道を行きし人あり」と言い切る。この山道は、自らがこれから辿ろうとする道でもあるのだ。むろん作者は先へと歩きだす。……と、まあ、こういうふうに読んでみるが、どうだろうか。
 この葛の花の歌は長崎県の壱岐島で詠まれたとされるが、そうでなく紀伊半島の熊野での作とも言われるらしい。さて、どちらなのだろう。壱岐島では確かに葛の花をたくさん見かけることができる。ただ低い丘しかなくて、細道を辿ってもたいしたことはない。紀伊半島の奥へ入ってみた時の途方もない山深さを思い浮かべると、壱岐の方はどうもそれらしさが薄れるような気がしないでもない。
 それにしても、わが八代で今季最初にこの花を見かけたのは9月中旬である。だが去年の8月31日に長野県の上高地で遊んだ折りには、松本駅から新島々(しんしましま)駅へと向かう電車の沿線に早くも葛の花がいっぱいだった。この花は暖かい地域よりも寒い北国の方が先に咲き始めるのであろうか。

▲道端の葛の花。葛は葉が大きくて「怨み葛の葉」などと風情が注目されがちかと思うが、いやいや花の美しさを忘れてはいけない。藤に似て実に良い色であるし、香りも好ましい