前山 光則
「えん歌」の謎は、翌日になって解けた。
11月21日、この日も天気が良かった。朝から周防大島町平野の星野哲郎記念館へ行ってみた。美空ひばり「乱れ髪」、渥美清「男はつらいよ」、小林旭「昔の名前で出ています」、北島三郎「風雪ながれ旅」、小林幸子「雪椿」、鳥羽一郎「兄弟船」等々、約4000曲もの歌を作詞した人である。ここはその星野哲郎の作品や資料を展示するために平成19年(2007)に開館された施設だそうだ。訪れてまず、瀟洒な佇まいに感心したが、館内に入ってみて直筆による二行詩の数々、星野作品の世界を映像で体感できる「星野劇場」、それから「星野工房」ではこの人の作詞家としての歩みが分かるような展示になっているが、特にご本人の行きつけだったという屋台を再現してあるのは愉快だ。また、愉しいのが「星野歌酒場」で、これはつまりカラオケで遊べる部屋だ。早速「風雪ながれ旅」「乱れ髪」等に挑戦したが、朝で、良い調子にならなかった(実ハ言イ訳デス)。星野作品以外の曲も選べるようにしてあり、女房が選んだのは「ホワット・ア・ワンダフルワールド」「コーヒールンバ」だった。
いや、それで肝心の「えん歌」のことである。展示を見てまわっているうちに判明したのだが、星野哲郎は、歌には遠くにあって思うときの「遠歌」、人と出会った喜びの「縁歌」、人を励ます「援歌」、こういうふうに色々の「えん歌がある」と、これが持論だった。だから「演歌」という書き方で限定せずに、ひらがなを使って「えん歌」とすべきだ、といつも説いていたのだそうで、なるほど、優れた作詞家はやはり考えることが違う。
隣接する周防大島文化交流センターの中には宮本常一記念館がある。ここでは、学芸員の山根一史氏が親切に対応してくれた。館内に展示された漁具や農耕機具等を見てまわっているうちに、島に住んで「みずのわ出版」という名の出版社を営む柳原一徳氏も駆けつけてくれた。ここでわたしが一番見たかったのは、宮本常一が撮った写真であった。この民俗学者は、昭和56年(1981)に74歳で亡くなるまで日本全国をこまめに調査して歩いた。聞き取りをしたり資料を読んだりするだけでなく、常にカメラを携帯して色んなものを撮影した。その数はおおよそ10万枚に上ると言われ、写真データは館内のパソコンに収められていて、山根氏にお願いして一部分だけ、宮本常一著『私の日本地図11・阿蘇球磨』に関連する分だけを閲覧させてもらった。すると、本には収録されていないものがずいぶんとあって、特に人吉・球磨地方の昭和37年当時の写真は興味深かった。
周防大島は、民衆の生活史を地道に掘り起こした民俗学者・宮本常一を、そして民衆の心を深く捉えた作詞家・星野哲郎を生んだ。ここは魅力的な島だな、と感じ入った。